憲法は絶対善なのか
少なくとも現行日本国憲法は、敗戦後、GHQ主導で、1週間ほどでつくられた。 国民主権とは言うものの、国民投票をしたわけでもなく、いわば押し付けられた憲法だ。 その意図は、「崇高な理想」などではなく、多分に、あれほど強かった日本を弱体化させようという意図があったと言うべきだろう、 憲法も、所詮は人間がつくったものだ。 地上の人間は、完全無欠な存在などではない。 ゆえに、不都合があれば、皆で話し合って…
少なくとも現行日本国憲法は、敗戦後、GHQ主導で、1週間ほどでつくられた。 国民主権とは言うものの、国民投票をしたわけでもなく、いわば押し付けられた憲法だ。 その意図は、「崇高な理想」などではなく、多分に、あれほど強かった日本を弱体化させようという意図があったと言うべきだろう、 憲法も、所詮は人間がつくったものだ。 地上の人間は、完全無欠な存在などではない。 ゆえに、不都合があれば、皆で話し合って…
憲法9条がノーベル平和賞の最有力候補になっているという。 もし受賞が決まれば、受賞者は「憲法9条を持つ日本国民」ということになるようだ。 つまり私も、受賞者の一人ということになる。 これは気持ち悪い。 20数年前のむかし、見知らぬ男性から電話がかかって来て、「おめでとうございます。このたび、◯◯に当選致しました」と言われた。 詳しく説明したいので、指定された場所に来て下さい、と言うので世間知らずだ…
もしこの地球上で、富の総量が一定のものだとしたなら、人口が増えれば増えるほど、一人当たりの富の量は少なくなっていくことになる。 しかしこれは真理でないことぐらいはスグにわかる。 今より遥かに人口が少なかった古代、人々は現代人より豊かだったろうか? かつての王侯貴族よりも、現代の一般人の方が豊かな生活をしている。 彼らが持っていなかった、自動車やケータイやタブレットなど、現代人はフツーに所有している…
「ワオ!」 興奮した米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏の姿を、東芝関係者は鮮明に思い出す。平成21年11月9日、ゲイツ氏は原発の設計を行う「磯子エンジニアリングセンター」(横浜市)などを極秘で訪問した。ゲイツ氏は自らが出資する次世代原子炉開発のベンチャー企業「テラパワー」の会長として、東芝が開発する次世代原子炉「4S」の視察に訪れたのだ。 4Sは、1万~5万キロワットと小型だが、燃料交換なしで…
2014年度第1四半期のGDP確定値が、マイナス7.1%と発表されました。 2%の経済成長を目標として掲げつつも、黒田日銀総裁は、「(消費税の)増税は必要」と発言しています。 アベノミクスの「第3の矢」は成長戦略のはずですが、安倍首相が、とは申しませんが、どうも政府は、一方で成長を掲げながら、他方では成長を望んでいないようにも見えます。 その深層心理には、発展や富を憎む思想があるように思えてなりま…
集団的自衛権は、国連加盟国ならば、どの国にも認められている権利です。 権利だから行使しない、という選択肢もありますが、そうするとすべて、個別的自衛権で対処しなくてはならなくなりますから、国民の負担はもっと重くなります。 経済的負担だけではなく、それこそ「徴兵制」「国民皆兵制」等を敷く必要が出てくるかもしれません。 武装そのものが「悪」だという考えもあるかもしれません。しかし、非武装によって国民が蹂…
長いタイトルのデモですが、大事なことです。 私も微力な一兵卒として、一昨日のデモに参加させていただきました。 「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も、未だに信じている方が大勢いらっしゃることと思います。 そして、殆どが心優しい日本人の皆さまであるならば、率直に、潔く謝罪することは尊いことだという価値観をお持ちだと思います。 しかし、大事なことは、そんな価値観など、単なるお人好しに過ぎない、と考えている人…
「鬼手仏心」という言葉があります。 集団的自衛権の行使を容認することは「国民が戦争に巻き込まれる!」という恐れを抱かせる鬼かヒトラーかというような怖いことのようにも見えます。しかし結果として国民を守ることになるなら、それは仏の心のごとき慈悲であると言えます。 これとは逆に、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉もあります。 一見優しく、耳に聞こえのいいことであっても、堕落へとつながる場合も…
日本の国防は、アジアの平和の上に成り立ちます。 アジアが戦乱の中にあって、日本だけが平和であるということが、交通の便が悪かった時代はいざ知らず、これだけ文明が発達した現代において成り立つでしょうか? 仮に成り立ったとしても、そういう日本が、アジア、あるいは世界からどのように見えるでしょうか? 実質世界第2位の経済大国でありながら、アジア情勢に何らコミットせず、責任を負おうともせず、“一国平和主義”…
集団的自衛権—。その行使を容認するか否かを論じることができるようになったこと自体が、今までの日本の政治風景から見れば、時代が変わって来ていることを象徴してはいます。しか行使容認への道は、しばしば「再び戦争のできる国にするのか」と批判されます。 あえて言いますが、「戦争も辞せず」という覚悟がなければいざという時に国を守れるものではありません。 最初から「戦争は致しません」と自ら手足を縛って、「言論で…