Posts Tagged ‘戦争’
日本の国防は、アジアの平和の上に成り立ちます。
アジアが戦乱の中にあって、日本だけが平和であるということが、交通の便が悪かった時代はいざ知らず、これだけ文明が発達した現代において成り立つでしょうか?
仮に成り立ったとしても、そういう日本が、アジア、あるいは世界からどのように見えるでしょうか?
実質世界第2位の経済大国でありながら、アジア情勢に何らコミットせず、責任を負おうともせず、“一国平和主義”を貫こうとするならば、自分のことしか考えていない、極めてエゴイスティックな国家に見えるでしょう。
これは、卑怯な振る舞いを卑しむ日本の民族精神に反するものでしょう。
前稿でも述べた通り、戦争ならばすべて悪、ということはありません。また、日本が軍事力を持てば必ず(侵略)戦争を起こすという考えも、日本が起こす戦争は必ず悪であるという考えも、論理的ではありません。
日本民族は断じて悪魔の化身のような民族ではありません。
本来、日本民族は、前述の通り、卑怯未練な振る舞いを何より忌避する、誇り高く、高貴な民族であると思うのです。
先の大東亜戦争で、欧米列強の植民地支配からのアジアの解放と人種差別政策の撤廃を掲げて戦い、それを実現したことは、世界史上で特筆されるべき偉大な功績です。
しかし、欧米にすれば自分たちが非道であったことを認めることになりますから、容易に認め難いことだと思いますが。
ベトナムやフィリピンのような小さな国(と言っては失礼かもしれませんが)でさえ、懸命に、というか必死に、中国の無道に対して抵抗しています。
日本は(好むと好まざるとにかかわらず)大国になってしまっているのですから、大国としての責任、義務を果たさなければなりません。
かつてのアメリカ合衆国が、小国の間は“モンロー主義”で通せましたが、大国になったら、日露戦争の調停に乗り出したように(セオドア・ルーズベルト大統領)、アジアの平和の調停者とならねばなりません。
習近平氏が言うように、アジアの安全保障を中国中心にやるようなことになったら、それはナチス・ドイツの再来と言ってよく、アジアが全体主義に席巻されることになります。
そのような統制・抑圧からアジアを守る、自由と平和、繁栄の守護神となること。これが神の国・日本が担うべき使命であると信じます。




「英雄」とは、時代錯誤的な言い方なのでしょうか。
私は決してそうは思いません。
以下、静岡新聞より。
日中会談「夫に頭に来た」 菅首相夫人、湖西で講演
2010/12/13
http://www.shizushin.com/news/local/west/20101213000000000028.htm
菅直人首相の妻の伸子さんが12日、湖西市の市民会館で講演し、政府の外交姿勢が批判された尖閣諸島問題やロシアのメドベージェフ大統領による北方領土視察に対し、「少々、弱腰でも戦争にしてはいけない」と発言した。一方、11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で行われた日中首脳会談での夫の対応には「頭に来た」と述べた。
講演は市内の女性グループの要請で実現。約千人が詰め掛けた。
この中で伸子さんは、北朝鮮に強硬姿勢を取る韓国・李明博政権の与党ハンナラ党が6月の統一地方選挙で敗北したことについて、「韓国には徴兵制がある。戦争になったら、自分の息子が死ぬかもしれないと考え、回避できる政党を選んだのでは」と論評。尖閣諸島問題やロシア大統領の国後島視察で政府が“弱腰”と批判されたことは、「問題はあるけれども、少々、弱腰でも戦争にだけはしてはいけない」と菅政権を擁護した。
一方、APEC期間中に行われた中国の胡錦濤国家主席との首脳会談をめぐっては、「夫(菅首相)は会談中、手元の資料ばかり見ていた。私もテレビで見て、『何やっているの』と頭に来た」とチクリ。軽妙なしゃべりで会場を和ませた。
(引用以上)
「自分の息子が死ぬかもしれない」から「少々、弱腰でも戦争にしてはいけない」という考えは、女性、特に母親ならばほとんどの人が、賛成するかもしれません。その気持ちは、母親とはやや立場は違うかもしれないが、子を持つ親として十分わかるつもりです。
しかし、国家存亡の危機のときには、全員ではないにしても、誰かが命を捨ててでも守らなければならないのです。
平和な時ならいざ知らず、有事の際には英雄が必要なのです。
北条時宗がいなかったならば、日本は元に蹂躙されていたでありましょう。
単に神風だけで撃退できたわけではありません。
明治維新のときも、もし数多の英雄出でず、革命ならずば、日本は欧米列強に蚕食されていたでしょう。
他の人々のために、あるいは天下国家のために、命を捨てることは、決して無駄にはなりません。それを、無駄死にとか、犬死にとかいうのは、単に唯物論・無神論の左翼教育に染まっているに過ぎません。
坂本龍馬、高杉晋作はじめ、草莽の志士たちがいなければ、維新回天の偉業はならなかったでしょう。
彼らの多くは、維新の日の出を見ることなく斃れましたが、その死が無駄であったとは、到底思えなないのです。
先の大戦においてもそうです。
わが国の先人たち、私たちの父祖たちの血の滲むような努力と、尊い犠牲とを礎として、戦後の平和と繁栄は築かれました。
このことはどれだけ感謝しても、感謝しきれないと思うのです。
日本の米軍基地に勤務する米兵は、命を賭して日本を守ることを宣誓して、遠い極東の地に赴任して来ていると聞きます。
若き米兵の命は犠牲にしても、わが子の命は守りたいと、日本のお母さん方は思うのでしょうか。
断わっておきますが、このことはもちろん、戦争を美化し、称揚する趣旨ではありません。
戦争に至る前に、外交交渉などによって抑止することができれば、それに越したことはないと思います。
しかし、そのためには、いざとなれば戦争も辞さないという覚悟が必要だ、ということを言いたいのです。
平和のために、戦争が必要とは、逆説的であり、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、「平和」とは、単に「戦争がない状態」ではないと思うのです。
チベットやウイグル、内モンゴルのように、国民あるいは民族が抑圧、弾圧、迫害されたり、あるいは奴隷のような状態となったとしたら、真の平和とはいえないのではないでしょうか。
侵略的意図を持つ国が、「日本の徳の高さに免じて、日本の独立と、自由と民主主義と、平和とを犯すことは致しません」などということは、万に一つもあり得ないのです。
つまり、戦う覚悟なければ、全国民が塗炭の苦しみなどという言葉では表現し尽くせないほどの苦しみを味わうことになる可能性があるということなのです。
危機に立つ日本でありますが、この国を守り抜くには、どうしても現時点で最強の軍事力を持つ米軍の協力、すなわち日米同盟の堅持が不可欠です。
しかし、それも、「日本は戦争を放棄してるので戦えませんが、どうかアメリカ兵の皆さま、守って下さい」ということではアメリカはどうして真剣に守ろうと思うでしょうか。
日本もまたサムライ国家としての精神を取り戻す必要があります。
他国の悪を許さない、という毅然とした国家になる必要があると思うのです。
そのためには、日本男子には命を賭けてでも、愛する人を守るという気概を持っていてほしいし、日本のお母さま方にも、強く、気高く、あっていただきたいと思います。




沖縄県の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の際のものとされる映像が、5日未明、インターネット上に流出した。海上保安庁の幹部は、これを本物と認めている。
中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船の警告を無視して、2度にわたって衝突してきた映像が流出した。
このビデオで中国側に非があることが日本国民の目にも、いや、世界中の人々の目にも明らかになった。
日本国民は、中国政府に対しても怒らなければならないが、弱腰の日本政府にも怒らなければならない。
中国政府に対する弱腰の姿勢自体が、誤った外交姿勢である。
国益を損なうこと甚だしいばかりではなく、今後、日本国民の生命・安全・財産を守る意志がないことが明らかになったからだ。
いや、日本国の主権そのものが、もはや風前の灯だといってよい。
同じことを、立場を変えてみたら、即ち、日本の漁船が中国の領海内で、中国の巡視船に衝突して行ったら、それはもはや戦争だろう。
そう、これは「戦争」だと認識しなければならない。
毎日jpによれば、明らかに中国側に日がある証拠であるにもかかわらず、中国にも転載された動画投稿サイトの書き込みには「中国の領海を日本側が侵犯したことがはっきりした」「日本の船が漁船の進路をふさいだ」という反発が出ているという。
中国政府関係者も、「仮に中国漁船が衝突したとしても、そのような状況に追い込んだ日本側に責任がある」として、中国側に非があるとの認識を示すことは無いと見られているという。
開いた口が塞がらないとはこのことだが、どこまでもジコチューな中国に対しては、どこまでも正義・正論を貫いて、国際世論を味方につけるべきだろう。
しかし、現状の日本政府は、主権を失ってでも戦争はしたくない、という弱腰の政府なのだ。
かくなる上は、要請されるは「国民の覚悟」だろう。
本来、政府が示すべきであるが、わが国の主権を守る、領土を守る、国民の生命・安全・財産を守るためには、不法な要求には決して屈しないし、そのためには戦いも辞さず、という覚悟を示す必要がある。
そうした毅然とした国民の意志が澎湃たる世論となったとき、弱腰の政府も毅然たる態度をとらざるを得なくなるだろう。
戦後日本の過てる左翼思想、左翼的教育によって、過てる平和思想を刷り込まれて久しい日本人だが、いまこそ、目覚める必要がある。
アサヒ・コムのヘッドラインは、「海保、午前3時の登庁 検察『時期まずい』 衝突ビデオ」となっていたのには思わず笑ったが、この期に及んで中国様のご意向を気にしてか、機密漏えいを問題視することに重点を置いた記事だ。
だが、そんなことは枝葉の問題であり、尖閣沖で現実に何が起きていたかという、主権者である国民が一番知りたかったことが明らかにされたという点で、この映像の意義は大きい。
「目覚まし」としては、これぐらいで止めておかないと、次は核ミサイルが飛んできたりしたら、ついに目覚めることなく、永遠の眠りについてしまうことになりかねない。




正義!
現在ほど、正義とは何であるかを追究することが大切な時代はない、と私は思います。
この国の人々は、「何が好きで何が嫌いか。」で判断する傾向があるように思います。
たとえば、
「戦争は嫌い。だから、戦争をするのはよくない」
わが子を戦場に送りだすことは、親であるならば、正直にいえば誰もが嫌だと思うこどでしょう。
人を殺すことも、殺されることも、いやだ。
それが、良心のある人々の自然な感情でしょう。
しかし、世界には、正しい戦いと正しくない戦いがある。
正義のための戦いと、悪のための戦い。
自由を守るための戦いと、自由を抑圧するための戦い。
戦わずに争いを避けるだけの平和であったなら、
それは結果として悪を助長することになったり、
自由の抑圧を許すことになったりします。
いま、キリスト教文明と、イスラム教文明が、どちらも正義と大義を掲げて、戦っています。
お互いに自分たちが正義だと思っているわけですが、
だからこそ、両者を統合する、全地球規模での正義を打ち立てる必要があると思うのです。
それは、地球人類として共通の価値基準を樹立するということでもあります。
自由と寛容の精神に満ちた、新しい価値観の樹立。
もちろん、それはそう簡単なことではありません。
全地球規模での全体主義政府を樹立しようなどというものでもありません(そんなことは不可能でしょう)。
しかし、「全地球規模での正義とは何か」ということを、徹底的に探究し、議論していく必要があると思います。
また、それ以前に、この日本において、「正義とは何か」ということが確立されなければならないでしょう。
それは決して、固定化され、教条主義化されたようなものであってはならないと思いますが。
余談ですが、物事は、前提が変われば結論が変わるのが当たり前です。
インフレ期には正しい政策が、デフレ期には間違いになることがあるように。
これが文系的発想ですが、
初の本格的理系宰相と言われる方は、最初に決めた結論通りに物事が進まなければ我慢ならない、と思っておられるようで、そこに怖さを感じます。
これは、「理想主義」ではなく、「理性主義」であろうと思います。
罪と断じたものを情状酌量もなくギロチン台にかける、フランス革命の怖ろしさを彷彿させるのです。
マスコミが作り出す「世論」と呼ばれるものを、何も考えず、ただ唯々諾々と受け入れるのではなく、
「誰が正しいか」ではなく、「何が正しいか」を、判断する目を持つことが大切であると思います。
それがまた、民主主義が衆愚政に出さないように担保するものとなると思います。



