私の意見
16 April

何が正しいか。

正義!

現在ほど、正義とは何であるかを追究することが大切な時代はない、と私は思います。

この国の人々は、「何が好きで何が嫌いか。」で判断する傾向があるように思います。

たとえば、

「戦争は嫌い。だから、戦争をするのはよくない」

わが子を戦場に送りだすことは、親であるならば、正直にいえば誰もが嫌だと思うこどでしょう。

人を殺すことも、殺されることも、いやだ。

それが、良心のある人々の自然な感情でしょう。

しかし、世界には、正しい戦いと正しくない戦いがある。

正義のための戦いと、悪のための戦い。

自由を守るための戦いと、自由を抑圧するための戦い。

戦わずに争いを避けるだけの平和であったなら、

それは結果として悪を助長することになったり、

自由の抑圧を許すことになったりします。

いま、キリスト教文明と、イスラム教文明が、どちらも正義と大義を掲げて、戦っています。

お互いに自分たちが正義だと思っているわけですが、

だからこそ、両者を統合する、全地球規模での正義を打ち立てる必要があると思うのです。

それは、地球人類として共通の価値基準を樹立するということでもあります。

自由と寛容の精神に満ちた、新しい価値観の樹立。

もちろん、それはそう簡単なことではありません。

全地球規模での全体主義政府を樹立しようなどというものでもありません(そんなことは不可能でしょう)。

しかし、「全地球規模での正義とは何か」ということを、徹底的に探究し、議論していく必要があると思います。

また、それ以前に、この日本において、「正義とは何か」ということが確立されなければならないでしょう。

それは決して、固定化され、教条主義化されたようなものであってはならないと思いますが。

余談ですが、物事は、前提が変われば結論が変わるのが当たり前です。

インフレ期には正しい政策が、デフレ期には間違いになることがあるように。

これが文系的発想ですが、

初の本格的理系宰相と言われる方は、最初に決めた結論通りに物事が進まなければ我慢ならない、と思っておられるようで、そこに怖さを感じます。

これは、「理想主義」ではなく、「理性主義」であろうと思います。

罪と断じたものを情状酌量もなくギロチン台にかける、フランス革命の怖ろしさを彷彿させるのです。

マスコミが作り出す「世論」と呼ばれるものを、何も考えず、ただ唯々諾々と受け入れるのではなく、

「誰が正しいか」ではなく、「何が正しいか」を、判断する目を持つことが大切であると思います。

それがまた、民主主義が衆愚政に出さないように担保するものとなると思います。