Posts Tagged ‘無神論’
宗教だからと言って、差別するのはやめよう。
幸福実現党はこの度の衆院選で、比例42名、小選挙区20名候補者を立てて7番目に多いのに、
「諸派」扱いで、「12政党」のみが扱われ、殆ど報道されない。
宗教だからと言って、差別するのはやめよう。
「宗教だから」という理由で差別するのは、
「黒人だから」と言って差別していた人たちとどう違うのか?
宗教だからと言って、差別するのはやめよう。
「政教分離」とは、政治権力が宗教に介入してはいけないという意味であって、
宗教が政治にかかわってはいけないという意味ではない。
宗教が政治にかかわってはいけないというのは、それ自体が差別ではないか。
宗教だからと言って、差別するのはやめよう。
唯物論や無神論は正しくて、
神仏を信じることは間違っているというのだろうか?
キリスト教とイスラム教の争いを見ればわかるように、宗教があるから戦争が起きるんだという人たちがいる。
その人たちは、無神論国家の中国や北朝鮮で、どのようなことが起きているか、見ようともしないのだろうか?
むしろ宗教は、唯物論・無神論の害毒から、人類を守ってきたのではないか。
あなたは、「神も仏も、信じない」という人と、
「神・仏を信じる」という人と、
どちらが人間として、信用できると思うのだろうか?
「私には信仰心がない」というのは、「私は人間ではありません」と告白しているのと同じだということが、わからないのだろうか?
唯物論と政治が結びついた時、最悪の政治が生まれる。
間違った宗教と政治が結びついたならば、やはり最悪だろう。
それは、自由を奪われるから。
しかし、正しい宗教と政治が結びついたならば、最高の政治が生まれる。
それは、人々が真なる自由を得、自己を解放することができるから。
各人の人間性、個性を最大限に開花させることができるから。
それこそが、幸福ではないだろうか?
「最大幸福社会」が、そこに現出するから。




こんにちは!
みやもとさとしです。
内閣不信任案、本ブログを書いている現時点ではまだ予断を許しませんが、
菅首相は「震災復興の目途がつけば辞任する」と
辞任を引き換えに内閣不信任案可決を避ける考えのようです。
辞任は既に遅きに失しております。
そもそも首相になるべき人ではなかったのですが、
ともかくも菅首相が退陣することが、
国難回避、震災復興の第一歩です。
なぜなら、現政権のあり方、菅首相の考え方を、
神仏はよしとされていないからです。
それゆえ、今回の地震も、天の警告として顕れているのです。
古来より日本、東洋では、為政者が徳を失った時、
天変地異や他国からの侵略を受けるような国難に遭うとされていました。
徳ある人には、人知を超えたものに対する尊崇の念があることが必要条件です。
人は、人間を超えた崇高なる存在を認めるからこそ、
謙虚になり、正直に、真摯に生きることができるのです。
そうであってこそ、
無私にして、国たみのために尽くそうという思いが出てくるのです。
こうしたことは、戦後の唯物論・無神論教育の中で
宗教的価値が蔑ろにされてきたので、
現代に生きる人々にとっては
ちょっと受け入れがたい考え方に見えるかもしれません。
しかし、唯物論・無神論、
そして宗教を社会からも生活からも政治からも排除する考え方の方が
歴史的に見れば、また世界的に見ても、
異常で非常識な価値観なのです。
よく言われるように、アメリカの大統領も、
就任式には聖書に手を置いて宣誓します。
「多数決の専制」を防ぐために、宗教こそが民主主義を守る砦である」
といったのは、19世紀の政治思想家・トクヴィルです。
ヘーゲルも「国家は宗教を土台とする」と述べています。
現代日本の政治の混迷は、
まさに、日本人、特に日本のリーダーが、
宗教心を失ったことに起因していると言ってよいでしょう。
もはや、宗教心なく、徳なき政治家は、日本には不要です。
それが、皇祖・皇宗の神、天照大神の御心でもあると信じます。
「宗教心なく、徳なきリーダーは、去れ!」
と強く訴えたいと思います。
今朝の辻立ちは、
白山市鶴来の安養寺交差点にて。




世界的に著名な理論物理学者であるスティーブン・ホーキング博士は、英ガーディアン紙のインタビューに応じ、「天国はない、死後の世界は作り話である」と述べた。科学者と信仰者の間隙が改めて露わとなる見解が示されることとなった。
ホーキング博士「天国はない、作り話である」-科学者と信仰者の間隙 – キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイ
ホーキング博士のかつての偉大な業績には賞賛を惜しまない。
しかしこの発言の裏には、唯物論・無神論を広めようとする悪意さえ感じる。
あえて善意に解釈すれば、研究するうちに唯物論の袋小路に入ってしまったと同情を禁じえない。
かつては「神というアイデアは宇宙に対する科学理解と必ずしも相いれないものではない」としていたが、「もし宇宙人がいたとしたら、白人に滅ぼされたインディアンのようになるから、宇宙人の存在は信じたくない」という発言は、正直な心情としては理解できなくはないが、一流の科学者としての立場からの論理的な発言ではない。
信じたかろうが信じたくなかろうが、存在するものは存在し、存在しないものは存在しない。それを探究するのが、科学的態度だと思うのだが。
「宇宙の創造に神は必要ない」と発言したあたりから、どうも怪しい感じがしていた。
いかに高名な宇宙物理科学者といえども、事実は事実、真実は真実。
釈尊もキリストもムハンマドも、明確に神仏や霊界の存在を説いていた。
それら聖人たちの言説を否定し去るだけの科学的知見をお持ちなのか。
真理を知らないことを無明・無知・迷いという。
如何にこの世的な学問に通暁していようとも無神論・唯物論者よりも、単純に、素朴に神を信じて生きている一般市民のほうが、人間として尊いのだ。
「アインシュタインの再来」とも評されるが、その精神性はまったく違う。
アインシュタインも、そしてニュートンも明確に神を信じていた。
かつてアインシュタインは「自分の研究など、神から流れ出る真理の大河に、スプーン一杯の水を注ぐほどでしかないと痛感した」と述べた。その謙虚さに学ぶべきだろう。
いまさら唯物論・無神論が世界に広がらないことを祈る。




一昨日、名古屋市内で、マスコミの偏向報道の是正を要求するデモが開催され、①選挙などでの特定政党への偏向報道、②大震災後の福島第1原発報道による風評被害(報道被害)、③大震災後に救援活動を行っている自衛隊や米軍についての報道の少なさなどの是正を訴えました。
私たちは宗教政党でありますが、「宗教」という偏見を取り除き、既成の常識や価値観にとらわれることなく、「誰が正しいか」ではなく、「何が正しいか」の観点から私たちの提言の是非を判断をしていただきたいものだと強く願います。
さて、今、日本は左翼貧乏神思想に基づく政権によって、国家の衰退、もしくは解体へと向かおうとしています。
左翼貧乏神思想の最悪なるもののひとつが、「唯物論・無神論」です。
神・仏を信じる人々よりも、人知を超えた崇高なるものを信じない、不信心な「似非」知識人や学者、言論人が尊敬されるような世の中は、断じて間違っていると声を大にしていいたいのです。
ここに、「宗教政党」が存在する意義があると思うのです。
左翼貧乏神思想の、最悪なる点の2つ目は、積極的に国家を発展・繁栄させる気概も智慧もないことです。換言すれば、経営マインド、企業家精神、健全な資本主義の精神の欠如です。
したがって、重い税を課し、それを再配分することによって権力の拡大を図ることばかりを考えます。
「福祉国家」といえば聞こえはいいけれども、国民は重い負担に耐え、自由を失い、国家から「あてがい扶持」をもらうように、生きがいも誇りも失って生きていかなくてはならない社会になります。
誰かが「価値」を創造し、富を生まなければ、国全体が貧しくなっていくしかないのです。
左翼貧乏神思想に侵された人々は、どうしてもこのことが理解できないようです。
そして、今日、一番申し上げたいことですが、左翼貧乏神思想の最悪な点の3つ目に、「自虐史観」が上げられます。
「ローマは偉大であるがゆえに人々から愛されたのではない。人々から愛されたがゆえにローマは偉大になったのだ」(G.K.チェスタートン)
日本人が、自分自身のアイデンティティーについても、国家についても、誇りと自信が持てなくて、どうして生きがいを持って幸福に生きることができるでしょうか。 どうして発展・繁栄することができるでしょうか。
「自虐史観」は、国民・国家にとって、ごく当たり前のことである「愛国心」でさえ、さも悪いことのように扱います。
そして、国民の生命・安全・財産を守るための「国防」を論ずること自体をも、タブーとしてしまいます。
これほど国民にとって不幸であり、かつ恐ろしいことはありません。
国師・大川隆法幸福の科学グループ総裁は、次のように説かれています。
ローマ市民がローマを愛していなければ、偉大なるローマはできなかったでしょう。偉大なるローマができたのは、ローマ市民がローマを誇りとし、愛した結果だったのです。
したがって、東京の人びとが東京を愛したならば、東京はよくなり、恐怖の事態も起きなくなります。
また、日本の国民が「日本をよくしていこう」と思えば、日本はよくなっていきます。逆に、「日本は悪くなっていく」と思えば、そうなっていくでしょう。
地球レベルでも同じです。地球市民が「この地球という星はもうだめだ。こんな星は滅びたほうがよい」と思えば、地球は悪い方向にいくでしょうし、地球がよくなる方向に向けて大勢が努力すれば、地球はよい方向にいくでしょう。(大川隆法『幸福の革命』)
私たち人間は、いつかは死に行く身です。
あの世を信じる人にも、信じない人にも、死は平等に訪れます。
人間として生まれた以上、この世に生きたという証を、後世に残したいものだと誰しも思うのではないでしょうか。
それは、この世的に見て必ずしも有名な人であるとか、出世したとか、才能を開花し成功したとか、大金持ちになったとかである必要はないと思うのです。
平凡であっても、逆境であっても、才能に恵まれていなくても、その人なりの人生を、精一杯生きたということが、生き方そのものが、後れて来る青年たちの魂の揺さぶることができるのではないかと思うのです。
自虐史観は結局、その根源は、「偶然に生まれて、偶然に死んでいく」という唯物論的な歴史観から生じているように思います。
無神論・唯物論の行き着くことろは、結局は、「自分さえ良ければいい」「今さえ良ければいい」という生き方になります。
そうではなく、人は皆、神の子・仏の子であるがゆえに尊いのであり、神の子・仏の子としてこの世で何らかの仕事をすることを計画して生まれてきているのだ、という人生観を持ってこそ、この世を積極的に良くして行こう、自分自身も向上していこうという意欲が湧いてくるのではないでしょうか。
過去の先人たち、私たちの祖先が数千年にわたり営々と築き上げてきた日本文明を、決してこのまま終わらせてはならない。
私たちは、先人たちが営々と築いてきた日本文明を土台として、これから日本が世界のリーダーとしての使命を果たす べき時に来ていると信じます。
世界を見渡しても、西欧型文明はその発展の限界に至り、イスラム文明圏は長らく停滞を来たしています。 そして、ユダヤ・キリスト教文明と、イスラム教文明とは、文明の衝突の様相を呈しています。
混迷する世界を調整し、平和に導く新しい勢力が必要です。
その潜在力を有するのは世界を見渡しても、 日本しかないと思うのです。
つまり、新たなる地球時代において、時代は日本を要請しているのです。
そのときにあたり、日本と、日本人が、誇り高き、気概を持つ国家とならねば、世界を救う力とはなりません。
私たちは、そのような崇高な責務を負うことを躊躇しません。
それでこそ、この時代、この日本に生まれ甲斐があったといえるのではないでしょうか。
このような崇高な責務を果たすためには、まずもって、「自虐史観」の一掃が、急務であると思います。




The Rev. Tesshu Shaku, chief priest of Nyoraiji Temple, a Jodo Shinshu (True Pure Land sect of Buddhism) temple in Ikeda City, Japan
Buddhism is called a religion with no god. So we don’t think God caused this, according to the Buddhist way of thinking. We think of the law of cause and effect, searching for a cause. It is the same approach as science. The cause of this earthquake is the friction between the North American plate and the Pacific plate.
Finding faith amid disaster – CNN Belief Blog – CNN.com Blogs
仏教は無神論とは驚きです。
このご住職は、この世を超えたあの世(霊界)があることは信じているのでしょうか。
もし信じていないのならば、宗教としては自殺でしょう。それで死者を慰める葬儀や法事などをしているのならば、詐欺罪に当たるのではないでしょうか(もっとも、それは遺族の慰めのためにやっているのだと強弁するかもしれませんが)。
それともあの世は信じるが、神や仏は信じないというなら、あの世に還られた仏陀・釈尊やイエス・キリストは、どこで何をしているとお考えなのでしょうか。
これまた宗教、ないし仏教としては自殺行為でしょう。
仏教僧侶で無神論やあの世はないと説く方は意外と多いようです。
宗教家、仏教の僧侶が無神論を説くなどということは、日本の戦後の宗教を軽んずる態度、唯物論の蔓延はここに極まれり、という感があります。
”原因結果の法則”(the laws of cause and effect)を重視する立場をとるといい、科学と同じアプローチをとる(the same approach as science)といい、今回の地震の原因を単に北アメリカのプレートと太平洋プレートとの摩擦(The cause of this earthquake is the friction between the North American plate and the Pacific plate)だとするならば、唯物論的な科学と変わらりません。
神仏や霊界、心の世界も含めての”原因結果の法則”に依れば(これこそが真に科学的アプローチだと思うのですが)、地震のもととなったプレートの摩擦だとして、そのプレートを動かした主体があるはずです。
その主体こそが神仏の意志であり、神仏にそうした判断をさせるのが、地上の人間たちの過てる想念の集合と考えられます。
その責任の大半は、為政者、国家のリーダーにあります。
為政者の過った考え方、判断によって、天変地異や外冦などの国難が招来されるということは古来より言われていることではありますが、現代では迷信のように考えられています。
しかし、これこそが、戦後、宗教排除してきた考えの極致ではないでしょうか。
仏教にしてもキリスト教にしてもあるいは日本神道にしても2000年以上続いています。
単なる迷信が、そんなに続くものでしょうか?
少なくとも人知を超えた大災害を通して、人は謙虚になり、人間を超えた超越的存在に対して心を開くようになります。
被災された方々の苦しみ・悲しみは察するに余りあり、心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興を祈念するものでありますが、改めて宗教、あるいは宗教政党の意義を訴えておきたいと思います。
宗教としては、物質的な復興の手助けだけでなく、精神的な側面からも復興をサポートすることができます。
死は永遠の別れではありません。
この世は魂の学校であり、この世での修行を終えた魂はまた本来の住処である霊界へと還っていきます。
また、この世で経験したことは万に一つの無駄もありません。すべて魂の糧とすることができます。
葬儀や法事は、決して生者への慰めのためにだけ行うものではなく、亡くなった霊をあの世へと渡らせ、さらには極楽浄土へと昇らせる導きのために行うものであることを改めて確認させていただきたいと思います。




毎年この時節になると、閣僚の靖国神社参拝の問題が取り沙汰される。
靖国神社とは別の、国立追悼施設を設立すべきだとの意見もある。
様々な人々が、様々な観点から、様々な意見を述べているが、わたしは、供養とか慰霊、あるいは鎮魂といった本来の意義が十分理解されていないところに本質的な問題があるのではないかと思う。
毎年、終戦記念日でもある8月15日、日本人の多くは、墓参りに行く習慣がある。
お盆には墓参りをする、という風習が広く日本人に受け入れられているために、全国で交通渋滞が発生することになる。
墓参りの本来の目的は、「供養・慰霊・鎮魂」である(ここでは三者を同義語として使う)。
勿論、お盆に帰省して両親や親戚、友人たちと会う、という目的もあるが(むしろ現代では、こちらのほうがメインになっているかもしれないが)、第一義的には、「供養・慰霊・鎮魂」が目的である。
「供養・慰霊・鎮魂」ということが成り立つためには、当然、死後の世界やあの世の存在を認めなければならない。
あの世に還った霊に対して、迷っている場合には迷いの世界から光の世界へと上っていけるよう、救いの念を投げかけ、すでに天国に還っている霊に対しては、さらに高い世界へと上っていけるよう感謝・祝福の念を送る、といったことが必要なのである。
そしてこれは、宗教によって作法に違いはあるが、当然ながら、それなりの宗教修行を積んだ導師でなければ不可能な行為である。
つまり、一定の法力・霊力がなければ、死後の魂を救済することはできないのだ。
(勿論、遺された近親者や縁ある人々の感謝・尊敬などの念が浮力となることはありうるが)
お盆のお墓参りに僧侶を呼んで読経してもらうのは、本来、そういう理由による。
したがって、もし僧侶にして、死後の世界を信じていないにもかかわらず(そのようなことはあってならないことだが)、お経を読誦することによって供養と称して布施を受けるとするならば、それは詐欺に近いといってよい。
つまり、「供養・慰霊・鎮魂」という行為は、きわめて宗教的な行為であり、それを実効あらしめるためには、宗教的に専門的な知識と能力が必要であるということである。
したがって、宗教性のない慰霊施設、などというものはありえず、それは生きている人々の自己満足に過ぎないことになる。
こうして見ると、この問題の背景には、あの世や霊、神仏の存在を認める立場と、そうしたものを認めない、唯物論勢力との戦いがあることが見えてくる。
また、神道的には、神社を建てるなどして亡くなった方を神として祀ることにより慰霊・鎮魂する、という方法はよくとられることである(例.明治神宮、東郷神社、松陰神社など)。
靖国神社もまた、英霊・戦没者を祀る、慰霊・鎮魂のための宗教的施設である。
したがって、靖国神社に参拝する本来の目的は、宗教的指導者の導師のもと、慰霊・鎮魂する、という極めて宗教的な行為をなすにある。
こう見てみると、(宗教家ではない)政治家が靖国神社に参拝することをとやかく言うこと自体がナンセンスであると言えよう。
目的は、戦没者の供養・慰霊・鎮魂である。それを、神道的作法に則って行なうというだけの話である。
閣僚が神道的儀礼に則って慰霊・鎮魂することは、政教分離に反するのではないかという意見が出るであろう。
しかし、これによって、特定の宗教を保護したり、国民に特定の信仰を強要することにはならない。
アメリカ大統領は就任式のとき、聖書に手を置いて宣誓する。
これが政教分離に反する、などとは誰が言うだろうか?
他の宗教勢力がもし非難するならば、自らの教義に則って、もっとすばらしいと信ずる慰霊・鎮魂の施設を作ればよい。多様な選択肢の中から選べるようにし、あとは自由市場に任せればよい。
また、国家のために命を投げ出した英霊、戦没者を供養するという崇高なる儀式・行為に対して、外交圧力をかける国は、それ以上の供養の仕方をわが国に教えたい、ということであろうか。
これを、内政干渉と言わずして何と言おうか。
他国、特に唯物論を国是とする国に、とやかく言われる筋合いは絶対にない。
あの世を信じない、霊も神仏も信じない、そのような唯物論・共産主義国家に供養や慰霊について論ずる資格も能力もあるはずがない。
我が国は、文明国の一つとして、信教の自由が認められている。
旧ソ連邦、北朝鮮、中華人民共和国。
唯物論・共産主義体制の圧政下、何百万、何千万の人々が粛清されたことか。
多くの国民が自由を奪われ、いまも、迫害・弾圧のなかにある。
「神も仏も信じない」ということが、これほど悲惨な国家を生むという証拠である。
このような思想のもとでは、決して基本的人権を尊重するという考えは生まれない。
基本的人権の基には、人間は神の子、仏の子であるという思想が必要である、ということである。
先の大戦が終わってから65年を迎えた。
この65年間、我が国は平和と繁栄を謳歌してきたわけであるが、その一方で、かなり左翼的な思潮に、換言すれば、唯物論・無神論に圧されてきた。
それは、いわゆる保守や右派と言われる論者の中にも浸入していると見られるし、残念ながら、宗教界の思潮の中にも流れ入ってきている。
(死後の世界をない、とする宗教家が残念ながらいるということだ。これは宗教にとって自殺を意味すると思うが、本稿の主旨ではないので別の機会に論じたい)
この点は、残念ながら、戦後の左翼的教育による洗脳が見事に成功した結果と言わなければならない。
その思想の意味するところは、結局、この世における生存を至高のものとする考え方であろう。
このような思想からは、自らを犠牲にしてでも崇高な責務を果たす、などという価値観は生まれてこない。
しかし、歴史は、そうした自らの身は顧みず理想を成し遂げようとする有名・無名の勇者によって紡がれてきた。
私自身は、幸福の科学の信者として、また、宗教政党・幸福実現党の党員として、死後の世界も、あの世の霊も、神仏の実在も、明確に信じている。
また、宗教法人・幸福の科学の僧職者として、宗教的な職務にも就いている者である。
そうした、自らの宗教的良心に基づいて、先の大戦においてはもちろん、二千数百年前、いやおそらくはもっとはるかなる以前から、この日の本の国を理想の国にせんと励み、身命を賭せられた無数の有名・無名の英霊に対して、心からの感謝と尊崇の念を捧げるものである。
さらに、そうした方々の努力に報いるためにも、唯物論・無神論勢力を断じて打ち破り、日本を宗教立国、すなわち信仰を背骨とした国家となし、日本という国を、世界の憧れとなるような、理想の国とするために、全力を捧げたいと思う。
日本が世界のリーダー国家となって、最高の繁栄と平和を示し、宗教的寛容の精神を以って世界から紛争をなくし、平和と繁栄へと導く。
そうした崇高な使命を果たせる国にしていきたいと思う。
これが私の、終戦記念日に、神仏、そして英霊に捧げる誓いである。




幸福実現党は、昨年の衆院選に続き、今年の参院選でも議席を獲得することができませんでした。
しかし、あきらめることなく、歩みを止めることなく、立党の志を忘れず、前進し続けてまいります。
惨敗、という厳粛な事実に目をそむけるわけでもなく、
しかし、それにこだわることなく。
考えてみれば、私たちは、現代の「常識」と思われることに、ことごとく逆らうかのごとき考えを持ち、活動をしています。
「宗教政党」であること。
地方議員を持たず、いきなり国政選にチャレンジしていること。
政策が「過激」に見えること。
などなど。
しかしつまるところ、「政教分離」(宗教が政治に関与してはならないかのように誤解されている)があたりまえのような状況のなかにあって、あえて「宗教政党」を名乗っていること。
これに尽きるのかもしれません。
しかしながら、如何に不利であろうと、これはわが党の「党是」ともいえるものであり、これを変更することはもちろん、薄めるようなこともするべきではないと考えます。
減税、小さな政府や、集団的自衛権、憲法9条改正を謳っている点など、政策的には、いわゆる「保守」に分類される、どの保守政党よりも、「保守」的であると思います。
しかしながら、いわゆる「保守」政党と根本的に異なる点は、まさにその精神性にあります。
宗教的精神こそが、国家のバックボーンに必要であり、唯物論・無神論および、それに基づくところの社会主義・共産主義は明らかに間違いであることを闡明している点です。
なぜあえて、この世において不利であること明らかな「宗教政党」を名乗っているのか。
それは真実であり、必要なことでもあるからであると信じております。
世界を見渡せば、イスラム教国は言うまでもなく、欧米諸国も、キリスト教的精神をバックボーンに持っております。
宗教をバックボーンに持たない国など、共産主義国家・社会主義国家・そして日本以外にはありません(日本にもかつてはありましたが、いまは骨抜きにされています)。
この意味でも、「日本は(最も成功した)社会主義国家だ」という評は当たっていると言えます。
しかし、宗教性を持たず、経済的にのみ繁栄する国家は、「エコノミックアニマル」と揶揄され、尊敬されえません。
その意味で、「宗教政党」を掲げる理由は、反社会主義・反共産主義・反唯物論・反無神論を闡明していると言ってよいでしょう。
唯物論・無神論、そしてその思想に基づく国家体制、あるいは社会主義・共産主義体制がどれほど人類を不幸にしてきたことか。
それは、この世における不幸に止まらず、あの世においても、大変な混乱と迷妄、闘争を引き起こしている、という点を、宗教の立場から明らかにしておきたいと思います。
私たちは、無神論者・唯物論者の言論その他の自由は保障されているにもかかわらず、信仰者のそれは必ずしも十分保障されていない現状を、決して容認することはできません。
人として生まれて信仰心なきことは、動物と変わらない、何より恥ずべきことであるということを明らかにしたいと思います。
もちろん、ここで言う「宗教」とは、幸福の科学の教義ですべてを染め上げよう、という趣旨ではありません。
それぞれの良心に従って、自由に宗教を選んでいただけばよいのです。
宗教においても、民主主義の原理は働くのであり、より多くの支持を得た宗教が大をなしてゆくのはごく当然のことです。
宗教もまた、自由市場に任せたらよいと思います。
国政選において2連敗したわが党ですが、
いまの選挙戦のシステム、あるいは枠組み自体にアンチテーゼを投げかけていると言っていいでしょう。
つまり、組織票をベースにして、それにマスコミが誘導する「世論」に浮動票がのっかるというかたちであり、
これは「一人ひとりが、良心に基づいて、候補者、あるいは政党の、政策や人物をじっくり見て、投票している」というかたちには必ずしもなっていないと思います。
あえていえば、真の民主主義として正しく機能していない、ということです。
だから、この枠組み自体を、変えようとする挑戦でもあります。
ここに、私たちの選挙戦の困難の2つ目があります。
つまり、「集票」活動というより、「啓蒙」活動とならざるを得ないと言えます。
しかし、真の民主主義政治を日本において実現するためには、こうした啓蒙活動はどうしても必要であり、この世の利権とは直接縁がない、宗教政党こそ、その責務を負うべき立場にあると信じます。
1つ目に、市民権を得ていない、「宗教」を看板に掲げて戦うことの困難さ。
2つ目に、いまの選挙戦の枠組み自体を変えようとする戦いであることの困難さ。
さらに付け加えるならば、世界全体が左傾化してゆく流れの中で、敢えて、「自由」の大切さを説く困難さがあると思います。
いわゆる「福祉国家」と呼ばれる国のあり方は、人に優しいようでありながら、実はそうではありません。
(国家)社会主義へと流れてゆくこの流れは、「自由の死」に向かう方向であり、それは結局のところ、国民全体を不幸にする流れであります。
このことは、いくら繰り返し訴えても十分ということはありません。
ことほど左様に、この国の国民(あるいは世界中の人々がそうかもしれませんが)、あえて厳しい言葉でいえば、「洗脳」されていると言って過言ではありません。
この点については、また筆硯を新たにして述べてまいりたいと思います。
ともあれ、今回の敗戦は、幸福実現党が大をなしていく一里塚であり、これによって怯んだり後退したりすることはあり得ないことを宣言しておきたいと思います。
われらは、最初から横綱を目指しております。
いわば、せいぜい「幕下付け出し」でデビューしたばかりの力士が、言ってることは横綱顔負け、といった状況でしょうか。
しかし、相撲を取ってみれば、実際は横綱にかなわないのであり、そういう意味で、敗戦は仕方がないでしょう。
しかし、横綱を目指すものは、最初から志が違います。
ただ「勝てばいい」とばかりに、姑息な技は使いません。
堂々と、ただ押し、突き、寄り、という王道を歩むのみです。



