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オウム擁護の島田裕巳氏を起用する週刊誌の見識とは?

オウム擁護の島田裕巳氏を起用する週刊誌の見識とは? | ザ・リバティweb – 幸福の科学出版 | 幸福の科学・幸福実現党

ザ・リバティwebも引用している島田氏の発言について、考えてみる。

「問題は、宗教の側が苦しむ人々に『救い』を与える手だてを持っていないことにある」

→何をもってこのように断定しうるのか?
幸福の科学について言えば、「救い」を与える手立ては無数にある。800冊を超える著書、300を超える国内及び海外支部、宗教法人、出版、政党、学校法人など、幸福の科学グループとして多様な救済活動を行っており、さらにその輪を広げようとしている。

「大川隆法氏のカリスマ性によって信者を増やしてきた幸福の科学は、学園や政党を作るなど、ある意味で今も”元気”だが、そもそも幸福の科学が宗教と呼べるのかとの疑問もある」

→週刊ポストの記事を読む限り、どの点が「幸福の科学が宗教と呼べるのかとの疑問』点なのかは明言していない。さも一般に認知されているかのような言い方をしているが、島田氏の個人的な認識ではないだろうか。
同氏は、何をもって宗教と定義づけるのか。また、同氏に、宗教と呼べるかどうか、判断する権限が与えられているのか。

読むに堪えない文章だが、概して、宗教というものを十把一絡げにして、「いかがわしいもの」と断じているように思える。

これは、少なくとも学者として誠実な学問的態度とは言いかねる。

さらに、「人と宗教的なるものの関係性が希薄になった結果、『いかがわしさ』を批判する力も失われつつある。そのため、こうした『個人宗教』がいつ再び『オウム的なるもの』に変貌するか分からないという意味で、非常に危ういといえる」。かつてオウムを擁護した方のお言葉に、思わず噴き出してしまった。

ザ・リバティweb同記事では、「歴史上稀に見る犯罪集団に宗教性や救いを認め、その総括もできていない島田氏をわざわざ起用して、現代の宗教について語らせるメディアのほうの見識も、同時に問われるべきだろう。」と結んでいるが、不思議なことに、いくつかのメディアが同時期に宗教に対する批判的な記事を載せている。

つい先日も、朝日新聞、サンデー毎日と続々と宗教法人への課税を擁護・誘導するかのような記事を載せている。

もし、誰かが裏で糸を引き、宗教法人への課税へと世論誘導しようとしているならば、聖なるものを世俗的なるものから守るため、断固として戦おう。

これは信教の自由、良心の自由、思想信条の自由を守る戦いになるだろう。

聖なるものと俗なるものとの区別がつかぬほど、日本人の心は唯物論に染まっていないことを信じたい。


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唐突なタイトルに見えるかもしれませんが、
過去、本ブログで何度か触れているテーマです。

本質的なテーマであり、これを外したら、本党の存在意義はないと言っていいテーマです。
立党の直接的な理由は、現実的な危機として、隣国の軍事的脅威がその最大のものの一つではあったわけですが、
精神的なる柱を打ち立てなければ、単なる唯物論・無神論国家に堕してしまいます。
ゆえに、日本と、世界の精神的支柱となるべく、真正の宗教政党として立党したと理解しています。

夜郎自大で言っているわけではなく、幸福実現党の活動いかんに、日本と世界の未来がかかっていると考えます。

現代人にとっては、奇妙に聞こえるテーマかも知れませんが、
聖徳太子は、その十七条の憲法で、
「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏・法・僧なり。…」と述べておられます。
堂々の「仏教立国」宣言です。
それ以前から、政(マツリゴト)のベースには、日本神道を中心とする宗教がありました。
宗教が政治と密接に係わるのは、世界においても、宗教をアヘンと見なす唯物論国家を除けば同じような事情です。
水平的で浅薄な「政教分離」論に乗せられてはならないと思います。

いま、日本は国難であると言われますが、その本質は、次の2つの危機に基づきます。
・信仰心を失った指導者による、国内は内部崩壊の危機。
・信仰心を否定する唯物論大国による侵略の危機。
こうした時代認識の下、「政治と宗教の大統合」を成し遂げ、日本と世界の希望の未来を拓いていく。
これが私たちの志です。

これは、聖徳太子以来の大改革です。
2009年、そのための”人柱”になる覚悟で衆院選に立候補させていただきました。
いまもその覚悟に変わりはありません。


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宗教が政治にかかわることはよくない、というのは、多分にデマゴギーであると思います。

先の大戦においては、国家神道が他宗を(同じ日本神道系である教派神道―大本教など―さえも)排撃してしまったこと、当時の政治的指導者のミスジャッジや軍部の暴走があったことなどが主たる原因であって、全てを十把一絡げに、「宗教」のせいにするのは、冤罪というものではないだろうか。実際、戦争に反対した宗派もありました(それ故に迫害要因になったのですが)。

もし、宗教が政治にかかわることをすべて悪とみなすならば、聖徳太子も聖武天皇も、すべて悪人となってしまいます。
よく言われることだが、アメリカでは大統領就任式で、聖書に手を置いて宣誓します。
これを単なるポーズ、儀式上のことだけと捉えるのは、唯物論に依拠する共産主義国家を除けば、日本だけではないでしょうか。

唯物論国家を除けば、宗教心があることはごく普通のことであり、ましてや政治家など、指導的立場にある人が無宗教であるというのは、基本的に信用されないということを意味します。

宗教が政治に関与することが悪いのではなく、政治が宗教、あるいは宗教的権威を利用(悪用)することが悪い結果を生むことがあるということでしょう。
先の大戦における、軍部の暴走のように。

現代の政治家たちの中にも、信仰心があるように見せながら、その実、その教団の信者の票だけが目当てのことも多いのではないでしょうか。その証拠に、複数の団体に所属している国会議員も多いと聞きます(宗教的寛容性のゆえに、複数の団体に所属している、あるいは、真理を多角的に探究したいために、そうしている、というなら理解はできますが)。

このように、信仰心なく、宗教を利用だけしようとしている政治家が、国を誤った方向に導こうとしているならば、もし神仏がいらっしゃるならば、そのような事態をいつまでも看過されているとは思えません。
時には、厳しき愛を示すことがあるのではないでしょうか。
たとえば親が、非行に走ろうとしているわが子供を、厳しく叱り、正しい道に導こうとするように。

多くの国民の身に不幸が及び、塗炭の苦しみを味わうことが見えているならば、何らかの警告を示すことも、当然ありうるでしょう。
それが、昨年の、3・11東日本大震災であったり、その後の台風であったり、今年の豪雪であったり。
こうした現象は、過去にもあったことであり、現在も起きており、これからも起きうるでしょう。

間もなく建国記念の日を迎えますが、いまや、唯物論国家並みに、いやそれ以下に信仰心が落ち込んだ日本の姿を見れば、幾千年にわたり日本を護り、育んでこられた神々は、さぞやお嘆きになることだろうと思われます。
このような信仰心を失った日本の国民の姿を見られて、何らかの警告を発されることと思います。
心ある日本国民の皆さま、ぜひ、その警告に気付き、耳を傾けていただきたいものだと切に願います。

願わくは、日本が平和で、繁栄し、世界をも平和と繁栄に導かんことを。
そのために、基本として、どうしても必要なのが、信仰心です。


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「除霊の滝行」と称して身動きできない状態にした女子中学生の顔に水をかけ続けて死亡させた疑いで逮捕した父親と僧侶を警察はきょう、熊本地検に送検しました。

TKUテレビ熊本

激しい憤りを感じます。

14歳で今世の魂修行の機会をいきなり断ち切られた無念さ。

間違った宗教の犠牲となられたことは、あまりに哀れです。

ただただご冥福を祈るばかりです。

 今回事件を起こしたようなものは、宗教の名に値しません。

一応仏教系新宗教とみなされているのでしょうが、

そもそも仏道修行においては、心を磨くことを本務であり、滝に打たれたり回峰したりという肉体行は仏道修行の本質とは何の関係もありません。

副次的な修行としてあり得ても、それが修行の本道ならば、よほど肉体が頑強な人しか悟れないことになります。

嫌がる少女を無理やり抑え付け、滝に打たせた一人が父親とあっては、やりきれない気持ちになります。

これほど間違った宗教知識が蔓延しているならば、それを啓蒙し糺すのも、正しい宗教の使命だと思います。

滝行や回峰行そのものは全面的に否定するものではありませんが、それは飛び込みの選手やマラソンの選手が専門的な訓練を経ているように、特殊な修行であり、それが仏教の一般的な修行方法だったとしたら、仏教は世界宗教にならなかったでしょう。

仏道修行においては、教学・禅定(精神統一)によって智慧を得て悟りに到ることを目的とします。

だからこそ、万人が可能な修行方法であり、万人が悟りを得る可能性を有するとされたのです(悟りの階梯はもちろん、人により差はありますが)。

悪霊憑依は現実としてありうることではありますが、それは基本的に滝行で除霊できるようなものではありません。

心のマイナス部分や悪想念に引き寄せられてくるものですから、心を明るく、正しい方向に向け、悪霊と波長が合わなくすることが王道です。

さらに言えば、仏神を強く信じ、仏神の光と慈悲を受けることにより、そうした他力を受けて悪霊を撃退するということも可能でしょう。

今回の事件を機に、宗教全体が怪しげなもの、悪しきものとみなす風潮が強化されないように願うばかりです。

あくまでも、宗教界は自らの自浄作用によって、悪しき宗教を駆逐し、真に人々に幸福と平安をもたらす役割を果たしていかなければならないと思います。

国家や、私企業であるマスコミが宗教を監視したり管理したりするようなことがあってはなりません。

それは、聖なるものの中に、俗世の穢れが入ってくることを意味します。

人間知を超えた、聖なるものを受け入れ、帰依をするからこそ、人間は傲慢にならず、謙虚に精進の道を歩み、仏性相等しき同胞として、愛を与えあって生きることができるのです。

聖なるものは聖なるものとしてあくまで守り抜かなければなりません。

国家や公的機関による宗教の管理のようなことがもし万一行われれば、それはすなわち、信教の自由の侵害となり、宗教弾圧に直結します。

全体主義国家、共産主義国家のごとく、宗教弾圧が行われれば、それは必ず言論・出版・表現・結社その他の自由の制限・抑圧へと進みます。

かくして自由は死を迎えます。

宗教は聖なるものであります。

そして宗教こそが、自由を守り抜く防波堤になるものであります。

かつての唯物論国家・共産主義国家同様、宗教をないがしろにする国家は、滅びに到ることを明言しておきましょう。

この事件を機に、まともな宗教まで悪しざまに言われるようならば、断固としてプロテストしてゆく覚悟です。


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こんにちは!
みやもとさとしです。

内閣不信任案、本ブログを書いている現時点ではまだ予断を許しませんが、
菅首相は「震災復興の目途がつけば辞任する」と
辞任を引き換えに内閣不信任案可決を避ける考えのようです。

辞任は既に遅きに失しております。
そもそも首相になるべき人ではなかったのですが、
ともかくも菅首相が退陣することが、
国難回避、震災復興の第一歩です。

なぜなら、現政権のあり方、菅首相の考え方を、
神仏はよしとされていないからです。
それゆえ、今回の地震も、天の警告として顕れているのです。
古来より日本、東洋では、為政者が徳を失った時、
天変地異や他国からの侵略を受けるような国難に遭うとされていました。

徳ある人には、人知を超えたものに対する尊崇の念があることが必要条件です。
人は、人間を超えた崇高なる存在を認めるからこそ、
謙虚になり、正直に、真摯に生きることができるのです。
そうであってこそ、
無私にして、国たみのために尽くそうという思いが出てくるのです。

こうしたことは、戦後の唯物論・無神論教育の中で
宗教的価値が蔑ろにされてきたので、
現代に生きる人々にとっては
ちょっと受け入れがたい考え方に見えるかもしれません。

しかし、唯物論・無神論、
そして宗教を社会からも生活からも政治からも排除する考え方の方が
歴史的に見れば、また世界的に見ても、
異常で非常識な価値観なのです。

よく言われるように、アメリカの大統領も、
就任式には聖書に手を置いて宣誓します。
「多数決の専制」を防ぐために、宗教こそが民主主義を守る砦である」
といったのは、19世紀の政治思想家・トクヴィルです。
ヘーゲルも「国家は宗教を土台とする」と述べています。

現代日本の政治の混迷は、
まさに、日本人、特に日本のリーダーが、
宗教心を失ったことに起因していると言ってよいでしょう。

もはや、宗教心なく、徳なき政治家は、日本には不要です。
それが、皇祖・皇宗の神、天照大神の御心でもあると信じます。

「宗教心なく、徳なきリーダーは、去れ!」
と強く訴えたいと思います。

今朝の辻立ちは、
白山市鶴来の安養寺交差点にて。

白山市安養寺交差点

白山市安養寺交差点


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東日本大震災での犠牲者の追悼や被災者の支援に、多くの僧侶らも奔走している。「宗教者の果たすべき役割とは何か」「祈りで人は救えるのか」。死者行方不明者2万6千人超という現実に、宗教者も悩み、苦しむ毎日が続く。28日は「四十九日」。寺には葬儀の読経を求める人たちがいまも訪れている。

【東日本大震災】「祈りで人は救えるのか…」宗教者も悩み、苦しむ毎日続く+(1/2ページ) – MSN産経ニュース

「祈りで人は救えるのか…」
宗教家としては、これに対して、明確に答えなければならないでしょう。

まず、宗教としては当然のことながら、「あの世がある」ということが前提となります。
不幸なことに、不慮の災害で亡くなった方々が、迷うことなく、あの世の天国へと還るためには、死後の世界への導きを与えなければなりません。
それが、「引導を渡す」ということの本当の意味です。
ですから、引導を渡せる人は、それなりの宗教修行をした人である必要があります。
したがって、あの世の世界を信じていない人は論外として(それは宗教家とは言えないでしょう)、あの世があるかどうか半信半疑の人であっては、引導を渡せないのは当然のことです。

一部には、仏教を「唯物論」と見る向きもありますが、皮相な解釈あるいは曲解すればそのように見えなくもないものもありますが(例.「無我の思想」の唯物論的解釈=死ねば何もかもなくなる)、釈尊が「三世(過去世・現世・来世)の因果」を説かれたり、「神々との対話」「悪魔との対話」、次第説法などを説かれているのを見れば、あの世がなければ成り立たない教えであることが明確です。
(ちなみに「神々との対話」「悪魔との対話」の現代版(現代的証明)として、大川隆法総裁は、数々の神々とも言われる高級諸霊や守護霊、悪魔との対話を行い、「霊言現象」として収録、各支部や精舎等でDVDにて上映、書籍として出版もしています)

未曽有の大災害で亡くなった多数の方々に対しては、「鎮魂」こそが、宗教家としてなすべき最大の責務でしょう。

この世を去った魂たちに対しては、「祈り」によってあの世の真理を伝えることができます。

人間は、もともと天国から地上に生まれ変わってきます。
その目的は、地上で様々な経験を積み、魂の糧となして、一層の成長を期すためです。
そしてこの地上を理想郷に近づけるために、努力することが地上生活の意味であり使命です。
この地上での死は、決して終わりではありません。
運拙く、人生修行を全うすることなくこの世を去ったとしても、それですべてが終わりではありません。
あの世で幸福に暮らすことはできますし、また地上に生まれ変わってくることもできます。

こうした、正しい真理を、祈りを通して、亡くなった方々に伝え、安らぎを与えること、すなわち「鎮魂」が宗教者の使命です。

もちろん、宗教者として事後的な「鎮魂」だけでなく、事前に死後の世界について「啓蒙」しておくことも大切な仕事でしょう。
また、すべての人々が幸福に生きる理想世界の未来のビジョンを示していくことも大切でしょう。

しかし、実際に現実社会での「救済」、この世でも魂修行を全うさせるための環境づくりは、政治の大きな仕事であると思います。

地震や津波などの自然災害もそうですが、「他国侵逼(しんぴつ)難」(他国との戦争や侵略の危機)にも備え、防災・防衛体制をしっかりと整え、すべての国民が幸福に暮らし、それぞれの魂修行を全うできる国家(仏国土)を建設すること、最大幸福社会を目指す未来ビジョンを示すこと、それが宗教政党・幸福実現党の使命でもあると考えます。


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金沢経済同友会の理事・常任理事・幹事会は23日、金沢市の金沢ニューグランドホテ ルで開かれた。席上、東日本大震災に関して、過度な自粛を慎むとともに、政府に対し被 災地支援のため20~30兆円規模の大型補正予算を早急に組むよう求めていく、との会員向け緊急アピールを決議した。

約40人が出席し、冒頭、東日本大震災の犠牲者に黙とうをささげた。飛田秀一代表幹 事は、日本の将来にとって福島第1原発事故の処理を含めた原発の安定運用が重要だとの 認識を示した。その上で「義援金やボランティアなどで被災地の復旧・復興を支援してい くことは大変大事だ。同時に、過度な自粛は慎むべきであり、被災しなかった地域まで過 度な自粛をすれば日本経済全体が停電してしまう」と強調した。

補正予算の編成については「財源は国債を充てればよい。短期的に日本はまだ国債を発 行する余力がある。震災後も円高になったのは、欧米に比べ日本は相対的に余力があると みられている証拠である。消費増税は中長期の課題であり、いまは大型補正を組んで復興 に取り組んでいかなければならない」と指摘した。また、「補正に伴う公共事業の中で、 東日本と西日本の周波数変換所を国の力で増やしていくことも検討すべきだ。東京一極集 中をあらためるために、地方に本社、工場を移転した場合の税制上の優遇措置も必要にな る」と述べた。

北國・富山新聞ホームページ – 北陸の経済ニュース

「飛田秀一代表幹事は、日本の将来にとって福島第1原発の処理を含めた原発の安定運用が重要だとの認識を示した」。
今回の事故は、原発そのものが原因で起こった事故ではない点、スリーマイル島やチェルノブイリとは決定的に違うということを認識しておく必要があると思います。
日本人が原発や放射能に対して過度にナイーブになる事情は理解できますが、原発に替わるだけのエネルギー量を賄える十分な代替エネルギーが開発されるのはまだまだ先の話になるでしょうから、ただ不安をあおり、だから原発はいけない、という主張は結局、エネルギー消費を抑える方向に行き、経済をさらに押し下げることになります。
先人たちが今まで築いてきた繁栄への道を捨てて、明治時代や江戸時代に逆行していく方向にも思えます。そういう方向を選択することは為政者として無責任でしょう。
放射線も「人体に影響はない」と言いながらも出荷停止しなければいけない基準であるということはある意味ダブルスタンダードであり、基準値が実態に即していない厳しすぎるものであると言えます。
政府が「人体に影響はない」ということと「出荷停止」ということの矛盾するようなことを言い続ければ、「やはり危ないのではないか」と疑心暗鬼になる人が多いのではないでしょうか。
今回の震災で、今後、自治体が新規に原発建設を受け入れることは難しくなるかもしれませんが、マグニチュード9以上の地震や、20m以上の津波をも想定した安全対策と、さらに万一の空爆等にも安全確保できるだけの防衛対策を講じた上で、地域と日本の繁栄にとってますます重要になる原子力エネルギーの重要性を粘り強く説得してゆく必要があると思います。

「『…同時に、過度な自粛は慎むべきであり、被災しなかった地域まで過度な自粛をすれば日本経済全体が停電してしまう」と強調した。」
全くその通りだと思います。
東日本、太平洋側が厳しい状況にあるときこそ、日本海側が頑張って復興を支え、日本の繁栄を牽引する、ぐらいの気概を持ちたいものだと思います。

「補正予算の編成については『財源は国債を充てればよい。短期的に日本はまだ国債を発 行する余力がある。震災後も円高になったのは、欧米に比べ日本は相対的に余力があると みられている証拠である。消費増税は中長期の課題であり、いまは大型補正を組んで復興 に取り組んでいかなければならない』と指摘した。」
これもその通りと思います。
増税はただでさえ不況下にある日本の経済力をますます押し下げ、ますます復興を遅らせます。
さらに言えば、国債もちまちました額でなく、また逐次投入になることなく、100兆円以上、できれば500兆円でもいいと私は思います。
おそらく高橋是清や田中角栄クラスの国家リーダーならば、そうした決断をすると思います。
これで最大の被害をこうむった東北の復興はもちろんですが、少なくとも東京・大阪・名古屋、できれば日本全体の都市を改造し、最強の防災都市・防災国家にすべきです。
かつて関東大震災の直後、当時の東京市長・後藤新平氏や本多静六博士が中心となって、当時の国家予算の倍以上の40億円の予算で、帝都復興を計画しました。100m道路の建設など、今考えても画期的な計画でしたが、残念ながら予算が縮小され、100m道路も漸次縮小され20m幅とかになってしまいました。
歴史にifはないといわれますが、もし、当時100m道路をはじめとする近代的な都市家拙に成功していたら、東京大空襲による被害は、もっと少なかったであろうといわれています。

世界一安全で繁栄した都市・国家を目指すという決然とした意思を示すことで、全世界の投資家の富を集めることができます。

なぜか震災後にもかかわらず「有事の円買い」が進み、円高になっている現象は、日本経済の底堅さを物語っていますし、”消去法”で円が選ばれているとするならば、だからこそ、日本が世界の繁栄を牽引する使命があると思うべきです。

日本が間違いなく復興し、不死鳥のごとく甦り、かつて以上の繁栄を実現する姿を見せてこそ、世界の希望となります。

そして、それが単なる経済的な復興、経済的な繁栄の再現だけでは、かつて”エコノミック・アニマル”と揶揄されたことの再現になりますから、やはりきちっとした精神的支柱を立てる必要があります。

精神性のバックボーンには、”宗教”が存在します。
日本では宗教というと、日陰者のような存在として扱われがちですが、これは世界標準ではありません。アメリカでもかつて唯物論国家だったロシアでも、大統領の宣誓式にはキリスト教の聖職者が立ち会います。

本当に神仏がいるかどうかという激しい内面の葛藤を経て、しかしどうしても神を信じることができない、と叫ぶ人のために、そうした人にも「無神論」という名の”信仰告白”は許されていると解するべきであって、単に空気に流され、信仰を持つことがかっこ悪いことのように勘違いして「無神論」を名乗るのは恥ずかしいことです。
神仏を信じていないということは、一般的に言って、欧米でもイスラム教国でも人間とみなされません。

聖徳太子以来、日本は、仏教・神道・儒教等を融合した宗教立国を国是としてきました。
”政教分離”は、政治権力によって自由な宗教活動が阻害されたり弾圧されたりすることを防ぐための規定であると解するべきです。
宗教が政治的な活動が許されないとするならば、”信教の自由”もまたないことを意味します。

私は、”復興”の鍵は、実は日本人の精神性の高さ、宗教性にあるとさえ思います。
日本が、世界に誇るべき高い精神性を持っているということを、堂々と言える国家にしていきたいものだと切に願います。


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中国メディアや中国人が報道やネット上のコメントで、震災下の日本人のマナーを絶賛していることを先ごろ本欄で書いたが、他の国にもそれが広がっている。

日本人の「質の高さ」に感動 各国メディア | ザ・リバティweb – The Liberty Web | ニュースの真実がわかる「ザ・リバティ ウェブ」

近江聖人・中江藤樹の逸話に「馬子の正直」と言われるものがあります。

藩主の命を受け聖人を探す旅にあった熊沢蕃山が近江の国の旅館に泊まった時、知り合いになった人が隣の部屋で話し合っている声が聞こえた。
その一人は武士で、主君から預かった数百両の金を届ける途中、馬に乗り、大事な金を落とさぬよう鞍に括り付けておいた。しかし、旅館に着いた時、うっかりそのことを忘れ、金をそのままに、馬を帰してしまった。
やがてそのことに気が付いたが、どうしようもなく、これはもう切腹しかないかと思っていた時、真夜中に旅館の戸口を叩くものがあり、それは何と昼の馬を引いていた馬子だった。
彼は鞍の金を見つけ、それをはるばる夜中に四里の道を歩いて返しに来たのだった。
武士はお礼をしようと四分の一の金を渡そうとするが、馬子は頑として受け取らない。
けんか腰で談判の末、ようやく4里の道を歩いてきたわらじ代として4文だけ受け取ることとなった。
(現代で考えても、例えばタクシーやバスの中に忘れた現金が、そのまま帰ってくるということは稀だろう)
なぜそんなことができるのかと武士が問うと、馬子は、中江藤樹という先生がいて、正直に生きよと教えているのです、と答えた。
こういう話を聞いた熊沢蕃山は、藤樹の許へ行き入門を乞うが断られ、その家の軒先で三日三晩座り込み、藤樹の母のとりなしにより、ようやく入門を許された、という逸話です(詳細異説あり)。

先の阪神大震災の時もそうでしたが、今回の震災に際しても、暴動も略奪も起こさない日本人のとった行動は驚嘆に値するし、日本人が誇りにすべきことだと思います。
「馬子の正直」に象徴されるような日本人の精神性の高さが脈々と世代を超えて受け継がれていると言えましょう。

そして、こうした高い道徳性・精神性の底流には、マスコミや左翼史観の方々は否定したいでしょうけれども、 宗教性が脈々と地下水脈のように流れていると確信いたします。

戦後の教育やマスコミの宗教を貶めるような情報操作によって、あまり表だって宗教や信仰について語れないような風潮がつくられているのに過ぎないのであって、本心では、そうした目に見えない神仏の働きを信じている、もしくは信じたいという人は数多いのではないでしょうか。

そうでなければ、ほとんどすべての日本人が、神社仏閣に初詣に行ったり、お盆に墓参りに帰省するという現象が説明できません。

以前にも言いましたが、日本ではバリバリの唯物論者が、オバケが怖い、ということがあるのです。

今回の震災の復興にあたっては、単に仮設住宅を建てるというような場当たり的な救済措置だけではなく、あるいはお金をばらまいて終わり、というだけでなく、長期的ビジョンを立て、ピンチをチャンスとして今以上の発展を目指すべきだと前のエントリーでも述べましたが、単に物質的な復興だけでなく、精神面でも復興を支援することが大切だと考えます。

かけがえのない家族を失った悲しみは、たとえどんな豪邸を立て直そうとも、大きな心の傷として残るでしょう。

そういう意味で、死は永遠の別れではないということ、あの世があるということ、目に見えない世界(霊界)には、神や仏や天使という存在がいて、迷える人々を救おうとしているという事実を教える宗教は、とても重要な役割を担うことになると思います。


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(CNN) — The giant Buddhas of Bamiyan, once painted in bright colors, remained silent sentinels as they reacquired the hues of the sandstone cliffs from which they were carved.

Will one of two destroyed Buddha statues be reconstructed? – CNN.com

小さい方だけとはいえ、再建される可能性があるとは、喜ばしいことだ。

「宗教があるから、世界で戦争や紛争が起きるのだ」と唯物論者たちは言う。

しかし、それは宗教による。また、その宗教を信じる信者たちの教義の理解にもよる。

仏教は、心の平安とこの世の平和を説く。
また「不妄語」「不殺生」の戒律を厳格に守りすぎた故に、釈迦族は滅ぼされたし、
11世紀から12世紀にかけて、インドにイスラム教が入ってきたとき、事実上壊滅状態になったとも言われる。

また、イスラム教徒も、本来、「イスラム」とは「平和」を意味するように、自分たちは平和を愛しているというだろう。
ただ、自分たちの平和を妨げるものに対しては、断固として戦うという論理だと思う。

こうしてみると、宗教があるから争いが起きるのではなく、お互いの理解と宗教的寛容さがないから争いになると考えるべきだろう。

逆に、宗教がない世界はどうなるかというと、
それは、現代の北朝鮮や中国、かつてのソ連邦のような世界を想像してみればよい。

宗教的寛容性においては世界で類を見ない日本が、世界の宗教を融合する立場を鮮明にすれば、世界平和に大きく貢献できるだろう。

その意味でも、バーミヤンの仏像再建には、日本の技術力の総力を挙げて協力すべきだと思う。

日本は、単に経済的な繁栄や科学技術の高さのみを誇っているのではなく、宗教的文化を重んじる、文化的成熟度の高い国であるということを、世界中にアピールできる機会になると思う。

日本こそが、宗教的寛容の精神に基づいて、世界平和に貢献できる立場に立ちうるといえる。

そのためにも、日本は、唯物論を国是とするのではなく、宗教的バックボーンをしっかりと持つ国であるという意味で、「宗教立国」を国是とすべきであると考える。
(ここでいう「宗教立国」とは、特定の宗教ではなく、信教の自由に基づいて、宗教間の自由競争、切磋琢磨によって確立された(国民の多くに支持された)精神性をバックボーンとする、という意味であり、かつての武士道精神に代わるものとも言える)


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石川県羽咋市にある、幸福の科学北陸正心館の玄関先には、大きな鉢に蓮が植わっています。
その蓮が、ようやく花開きました。

えもいわれぬ美しい花弁を見ていると、とてもこの世のものとは思われません。
一瞬、霊天上界にいるかのような錯覚にとらわれましたが、わたしたちが生きている世界は、紛れもない、この世の現実社会。

幸福の科学グループ総裁・幸福実現党名誉総裁、大川隆法先生の著書『信仰のすすめ』には、次のように説かれています。

「この世というものは、なかなか、人々の思うようにならないものですし、善を目指しているものであっても、結果的に、全体をまとめることはできないこともあります。

戦争をなくすために、選挙という制度も編み出されましたが、選挙で決められないものも、どうしても出てきます。選挙や、会議による合議などでは決められないものが出てきて、どうしても衝突は起きてくることがあります。それもまた世の常ではあるでしょう。

このように、この世のなかを見渡してみると、不幸の種はあちこちにたくさんあるので、『これを取り除かないかぎり、幸福になれない』という考え方をし、不幸の種を完全に取り除いて極楽浄土の姿をこの世に下ろそうとしても、それは極めて極めて難しいことです。

しかしながら、『この世という世界は、そういうものである。この世には、闘争や破壊、憎しみ、嫉妬、恨み、怒り、狂気の世界がたくさんある。また、この世は弱肉強食の世界でもある。この世は、生きていくのがなかなか難しい世界なのだ』ということを認めつつも、それはそれとして、逆に、そのなかで、この世に自分たちが生まれた意義、生きている意味を見いだすことが、非常に大事なことなのです。

仏法では、これを『泥中の蓮華の花』にたとえています。

蓮華の花が咲いている沼や池を見たことのある人も多いと思いますが、そこは、どこも泥沼や泥池です。咲いている蓮の茎の下にあるのは、白い砂利を敷き詰めてある、澄みきった、きれいな池などではありません。下は泥です。泥んこです。この泥は、どう扱っても、誰もが『汚い』と言います。不潔で臭いものです。

こんななかからスッと茎を伸ばして水面に咲いた蓮の花には、白い花や赤い花など、いろいろな種類がありますが、この一輪咲いた花を見れば、まるで天国か極楽浄土のようにも見えます。そんな花が咲きます。

昔から、蓮の花は、そういう泥沼や、物がたくさん捨てられる、ごみためのような所などに咲くのですが、そんな汚い所から清らかな花が咲いてくるということに仏教者は憧れて生きたのです。」
                    (大川隆法『信仰のすすめ』第1章 泥中の花 より)

泥沼のなかにあっても、蓮の花のように、美しい花を咲かせて生きるというのは、人生の理想の一つでありましょう。

しかし、泥沼のような現実社会を、泥沼のままでよしとする言い訳に使ってはならないと思います。

泥沼のような現実社会を、少しでもきれいな池に変えていこうと努力することが、その人にとっての、一輪の蓮の花を咲かせる行為となっている、そういう役割、使命を帯びた人々もいるはずです。

心の世界の平和・幸福を実現しようと努力することと、現実社会を少しでも極楽浄土に近づけていこうと努力すること、前者は宗教的活動の本質であり、後者を政治活動の本質とするならば、宗教と政治とが共に手を携えて、努力していくことで、最高の幸福社会の実現へと近づいていくのではないかと思います。
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