Posts Tagged ‘宗教立国’

戦後70年。戦争が終わった年に生まれた方も、もう70歳。
長寿社会では70歳ぐらいでは高齢者とは言わないのかもしれませんんが。

白山麓の「限界集落」で一人暮らしの母も、昭和10年生まれ。今年の誕生日にはめでたく80歳を迎えます。
我が集落では母は、「ねえさん」と呼ばれてますよ。

閑話休題、戦後70年。そろそろ戦後レジームは終わりにしましょう。
イノベーションしない骨董品のまま21世紀に突入してはや15年です。もう持ちません。

今までよく持ったものだと思います。
「平和勢力」もそれなりに意義があっただろうと思います。

でも、もはや「国家存亡の危機」なのです。
危機を煽るつもりはありませんが、世界は、冷戦後の「パクス・アメリカーナ」が崩壊寸前、中華人民共和国は虎視眈々とアジア・アフリカ・オセアニアの覇権を狙っている、という状況にもかかわらずいままで同様安穏としていては「 平和ボケ」と言われても仕方がありません。

「戦後レジーム」の象徴が、GHQから”下賜”された憲法ですから、半主権国家から、真正主権国家へと脱皮するためには、どうしても憲法の改正は必要と思われます。

特に9条は、なんとか解釈で乗り切ってはきましたが、それにも限度があります。
日米安全保障条約があるとはいえ、アメリカのコミットメントももはや心もとない状況ではあります。

戦後の”日本教”においては、憲法9条と並んで「人命最優先」が教義の一つのようではありますが、あえて言いましょう、
「命に代えても、守らなければならないものがある」と。
「命以上に大事なものがあるのだ」と。
「ゆえに、ある人々は、自らの身命をその命以上に尊いもののために擲ってきたのだ 」と。

それは、自らの「家族」であったり、家族や民族が住しているところの「国家」であったり、あるいは「自由」とか「民主主義」とか、そうした目に見えない崇高な価値であったり、さらに言えば、神仏の理想であったりするのです。

これは、命を軽んじる思想では決してありません。
むしろ、神仏からいただいた命であるからこそ、自他ともにその命を慈しみ、大切にしなければならないのであり、
その命を輝かせることを妨げるものに対しては、断固として戦うことによって、人類は、”万物の霊長”と言われる気高さを保ってきたと言えましょう。

新しい時代の憲法は、人間を超えた叡智者であるところの神仏の意を体したものであるべきであり、それが日本の神代の昔からの国柄にも沿うものだと思うのです。

憲法改正までの道のりは長いですが、「時間がない」というのも事実です。
残された時間、1日も早く憲法改正に踏み込めるよう、努力を重ねてまいります。

下記は最近の辻立ちの様子です。
クリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2015年2月17日 野々市市新庄2丁目交差点での辻立ち

2015年2月20日 金沢市東長江交差点での辻立ち


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幸福実現党は、小選挙区こそ立候補者を立てていませんが、全国11ある比例ブロックにそれぞれ候補者を擁立し、国政選に挑みます。

しかし、あろうことか、今朝(12/2)の北國新聞には、全国の比例代表名簿の欄には、我が幸福実現党が載っていない。
他の9党はちゃんと載っているにも関わらず。
わが党は小選挙区との重複立候補もできないし、
この紙面を素直に見ると、幸福実現党からは誰も立候補していないと思ってしまうでしょう。
これでは最初からハンディキャップ戦ではないか!
比例では「生活の党」より「社民党」より「新党改革」より多く、「共産党」と同じ42名が立候補しているのですよ!
不公平であるというに止まらず、国民の選択の幅を狭くしています。

国民の選択の幅を広げるという意味では、各党の政策も公平に紹介するのが筋だと思うが、1面には「8党首討論会」の記事があり、こちらは幸福実現党に加えて、先の9党から「新党改革」も除かれている。
しかも、ご丁寧に「日本記者クラブの参加基準を満たしていない新党改革は出席しなかった」と記されている。
日本記者クラブの参加基準とやらがいかなる権威あるご立派なものかは存じあげませんが、おそらく参加基準を満たしていないのはわが党も同様と思います。
なのに、幸福実現党とわざわざ記さないということは、あからさまに無視しているということですよね?

これはおそらく北國新聞の罪ではなく、全国の地方紙に配信しているナントカ通信社の所業と思われますが。

このように新規参入を拒む体質こそが、日本の発展を妨げている主因の一つであると思うのです。

新しいものが興る時には、それ相応の抵抗があります。そのスケールが大きければ大きいほど、抵抗も大きいでしょう。
ゴータマ・ブッダ・釈尊が興した教えも、イエス・キリストが興した教えも、 ムハンマドが興した教えも、しかり。
彼らも最初は新興宗教でした。
某新聞のコラムには、呉清源さんの死去に触れて、新興宗教に「深入り」したことを「人生の『定石」を踏み外しかけた」とわざわざ取り上げている。
十把一絡げに「新興宗教」とレッテルを貼って欲しくないものです。
その宗教が、良い宗教であるか、悪い宗教であるかは、その果実を見ればわかります。
日本中に、そして世界各地に実りつつある幸福の果実を、どうかご覧ください。

さはさりながら選挙戦。
厳しい戦いは続きます。
「比例は幸福へ」。
この一言が、あなたの心に火を灯します。
その一票が、あなたを幸福に誘います。

どうか、有権者の皆様におかれましては、自らの権利を放棄することなく、投票に行かれますことを。
どうか、一人一人が、自らの心の内に問うて、白紙の目で見て、正しき選択をなされますことを。
この国が、神仏の御心にかなった 、理想国家となりますように。

私も微力ながら全力を尽くしたいと思います。


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「霊言は、科学的合理性が立証できない」など、不見識極まりない。
「天なる父」の声を聴き、語ったイエスの教えに基づくキリスト教系の大学も、「神々との対話」「悪魔との対話」をなした釈尊の教えに基づく仏教系大学も、学問として認められず、大学も不可なのか。
たかだか100年余りの自然科学的な手法でもって、現文明に限ってみても数千年の昔から滔々と流れ来たる宗教的真理を、証明できないから正当ではない、などというのは、30センチ物差しで太平洋の広さを測ろうとして、「この物差しで測れないから、太平洋はない」と言っているに等しい。

また、献本を「認可の強要を意図する」とは、全く不当な「信教の自由」の侵害だ。

「信教の自由」とは、それが認められてはいても、それを表明することができず、ただ心の中で信じているだけならば、その自由もわざわざ保証するまでもないだろう。
したがって、「信教の自由」は必ず「信仰告白の自由」をともない、さらに、自らが素晴らしい、尊いと思う教えを、他の人々にも伝え、伝道するという「伝道の自由」 をもともなうものである。
否、信仰告白そのものが、伝道行為であると言ってよい。
経験したことのある人ならばわかるが、「信仰告白」という、自らの信仰を表明する、というたったそれだけのことですら、現代日本という唯物論的な環境の中では、大変勇気のいることである。
ましてや、献本という、書籍(経典)を贈る伝道行為は、そこに説かれている教えと、その教えを奉じている自分自身の人格が対比されるのである。
そして、相手によっては激しい批判の言葉が返ってくることもある。
その後の、ご近所や、学校や、職場などでの人間関係にまで大きな影響を及ぼしてくることがある。
(平たく言えば、お互いに気まずくなったり、白い目で見られたり、無視されたり、いじめられたり、など様々なことが起こりうる)

どれだけの緊張感と、不安感と、恐怖に近い感情とがないまぜになった状態であるか、想像がつくだろうか。
伝道とは、それを乗り越えてなされる、全人格を賭けた真剣勝負である。
自分自身が非難され否定されるだけならまだしも、自分が最も尊敬し、帰依し、拠り所としている方が 、またその方の教えが、批判されたり非難されたりすることは、自らの身が切り刻まれる以上の苦しみ・悲しみ・悔しさを味わうこともある。

世が世なら、迫害され、殺されることもあるのが伝道だ。
これほどのプレッシャーに耐えながら、伝道し、献本することが、どうして「強要」などになりえようか?
そのような、ある意味で命がけの真摯な行為であるところの伝道(献本)を、「不正行為」などと言う。
これこそが、伝道権を否定する不当な圧迫であり、「信教の自由」の侵害に他ならない。

それでも、神の栄光を賭けて、地球の未来を賭けて、人類の幸福を願って、 伝道するのである。
それほど、伝道とは尊い行為なのだ。
「伝道は絶対の善」とも言われるのは、そのためだ。

神仏は、人々の幸福を願ってやまない存在である。
民主主義とは、人々が神仏に成り代わる、ということではないだろう。
通常、神仏の心がわからぬから、人々が寄り合って英知を集め、より神仏に近い考えを選び取ろうと努力することではないのか。
そこに、真の民主主義が生まれてくるのではないか。

今回の幸福の科学大学の設置申請「不認可」をめぐる一連の問題で明らかになりつつあることは、政界も、教育界も、腐臭を放っている、ということである。
浅学菲才を顧みず、 政界浄化と、教育界浄化にこの身を捧ぐことを、改めて誓った次第です。

神仏の心から遠く離れた国民とその国に、未来があろうはずもない。
「宗教立国・日本」の実現を高らかに掲げ 、努力精進してまいります。


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集団的自衛権—。その行使を容認するか否かを論じることができるようになったこと自体が、今までの日本の政治風景から見れば、時代が変わって来ていることを象徴してはいます。しか行使容認への道は、しばしば「再び戦争のできる国にするのか」と批判されます。
あえて言いますが、「戦争も辞せず」という覚悟がなければいざという時に国を守れるものではありません。
最初から「戦争は致しません」と自ら手足を縛って、「言論で戦う」と言っても「平和を愛する諸国民」とはとても思えないような輩を相手に、言論などという高貴な武器は通用しないでしょう。それはあたかも、サバンナを丸腰で歩いていてライオンに出会って、「私を食べないでくれ」と説得するようなものです。

自由、独立を守るためには、どの国だって、血を流すことを厭わないものです。いや十二分に厭いはするが、のたうち回るような懊悩を経て、あえて青年の血を流さなければならないかもしれない決断をしなければならないこともあるのが、真の責任あるリーダーの姿でしょう。
この世の命を至上と考え、それを守ることのみに汲々とする姿は、ある面で、人間の、と言うよりも動物の本性でありましょうが、人間はそれを超えた高貴なる存在であります。
この世の命のみが至上なのではありません。この世の命を超えて、守るべき崇高なものがあるのです。
この世の命至上主義とでも言うべきものは、ある意味で、唯物主義と変わらず、行き着くところは「自分さえよければいい」という自己中心主義の極致でしかない、ということは、13億か14億かの人口を抱える、隣りの巨大な唯物論国家を見れば、思い半ばに過ぎましょう。

偉大な先人たちは、自らの身命を擲って、この世の命以上に崇高で守るべきものがあることを身を以て示されました。
イエス・キリストしかり。またその弟子たちも。時代を下って、ジャンヌ・ダルク、ヤン・フスもそうであったでしょう。
日本においては、明治維新前夜の吉田松陰先生をはじめとする、数多の志士たち。
名もなく散っていった草莽の志士たち。
大東亜戦争(どこかのメディアでは、プレスコードでこの用語は使ってはいけないそうです)で散華した三百万英霊。
目には見えないけれど、この世の命をも超えた、価値あるもの。
愛、慈悲、智慧、真理、自由、勇気、正義、献身、などなど。
これらを守るために、人はあるときには、自らの命を投げ出すこともあるのです。

やみくもに戦争を欲しているわけでは決してありません。また、戦争を賛美するつもりもありません。
戦争はあるとき起きるものであり、避けることができない場合もあり、そういう場合も想定して備えをするのは例えば国家のリーダーならば当然のことでしょう。
「戦争にいいも悪いもない。戦争はすべて悪い。だから日本は(日本だけでも)戦争はすべきではない」と言う方もいるでしょう。
もし「戦争にいいも悪いもない」のが真理ならば、先の大戦で、負けた日本のみが悪者にされるいわれはなく、勝った連合国側も悪い。
そして、東京大空襲で無辜の民を焼き払い、広島・長崎と2発も原爆を落とした罪は、人類史上最大の虐殺、最悪の「人道上の罪」の一つとして断罪されるべきでしょう。

悪なる戦いと、正義の戦いは、確かにあります。
少なくとも、国民が自由を奪われ、粛清や弾圧を受けるような未来が待ち受けているならば、そうならないように断固として戦うべきだと思うのです。
戦いには勇気が必要です。
あえて言えば、勇気なき国民は滅びるしかないのです。

またある人は言う。「時の政権によって、自由に憲法の解釈が変えられるようでは、立憲主義に悖る。憲法改正こそ筋ではないか」と。
確かに、憲法改正こそ王道でしょう。しかし、それだと何年かかるのですか?目の前に迫る有事に対処できるのですか?
法律(憲法)を守って、国民の命を守れないというならば、それは本末転倒でしょう。
結局、集団的自衛権の行使容認を認めたくないがための言い訳、時間稼ぎにしか思えません。

さらに言いますが、「立憲主義」がさも世界の「常識」のように言われますが、それは果たして真理でしょうか?
「立憲主義」は全能の神のごときものなのでしょうか?
憲法と言い法律と言い、人間が作ったものです。
わけても現行日本国憲法は、GHQ主導で1週間ほどで作られ、「下賜」されたものです。
法の根源にあるものは、神仏の法であるべきですが、近現代の(法)哲学の流れは、そうしたものを否定する方向で流れて来ていると言えましょう。
しかし、人間の作った法が、神仏の法を超えてよいとは、どうしても思えないのです。

人間心、あるいは人間の頭を超えた崇高な理念を語るには、神仏から話を始めなければ無理でしょう。
神仏の存在を、そしてその愛や慈悲を、信じることが、どうしてそれほど難しいのでしょうか。いや、難しくなったのでしょうか。
かつての日本人はそうではなかったはずです。
英霊たちは「靖国で会おう」と言って散って行ったのです。単なる言葉だけの、慰めで言っていたとは思えないのです。
私の幼い頃はまだ、年配の人たちは、神社の前を通る時、一礼して通り過ぎたものでした。
お盆やお彼岸に、お墓参りするのは、決して儀礼としてのみの行為ではなかったはずです。今でも心から故人を偲んで冥福を祈って手を合わせる姿を見るのはそれほど困難なことではありません。

神仏を信じる行為は、決して恥ずべき行為ではありません。
信仰を持っているということは、唯物論国家を除けば、世界の、極めてスタンダードな姿です。
「日本の誇りを取り戻す」とは、「日本人の信仰心を取り戻す」と言うことでもあります。なぜなら、人間としての誇りの根本は、神の子、仏の子として、神仏と同じ性質を宿しているということに行き着くからです。

そしていつの時代も、時代を動かすものは、神の愛であり、神の愛を具現化せんとする使命を帯びた一群の人々であります。
私も、全能の神の愛を具現化する者のひとりでありたいと熱望するものです。

写真は、5月20日野々市市御経塚交差点での辻立ちの様子です。
野々市市御経塚交差点にて

野々市市御経塚交差点にて

下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2014 05 20 野々市市御経塚での辻立ち(前半)
2014 05 20 野々市市御経塚での辻立ち(後半)


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この世界が、「神も仏も信じない」という世界になってよいものであろうか。
「神も仏も信じない。宗教はアヘンだ」という思想に基づいてつくられた国家が、どのようになっているか。
中華人民共和国が、チベットやウイグル、内モンゴル自治区でやっているような弾圧、虐殺、民族浄化。
あるいは、国家全体が、収容所列島とかしているかのような北朝鮮の姿を見たとき、思い半ばにすぎるでありましょう。
それは、この文明が進んだと言われる21世紀に、現実にあり得るのかと目を疑うばかりの惨状が展開しているのであり、まさしくこの世の地獄であり、そういうことをしている人々の行為は、悪魔の所業と言うべきでしょう。
「神を信じない」という思想が行き着くところは、結局、このような結末になることを示しています。

他方、神を信じる人々の間であっても、キリスト教対イスラム教の戦いが過去もあり現在もあり、ユダヤ教とイスラム教も激突し、また、同じ宗教内でも宗派の違いによる対立あり。「宗教があるから、戦争が起きるのだ」という論理は一見正当なようにも見えます。
それは皮相浅薄な見方にすぎないのですが、それを論じることは暫く措くとして、では、地上から宗教が亡くなったら、どのような世界が展開するか。
前述のような地獄図絵が展開しないと誰が保証できましょうか。

人間の本性として、神仏を信じる心は、しぜんに備わっていると言ってよいでしょう。
それが証拠に、 ソビエト連邦崩壊後は、ロシア正教が復活してきましたし、あの共産主義国家中国であっても、キリスト教が広がりを見せています(それを恐れたのか、当局は、信者さんのお布施でまさに建たんとしていた教会を、無惨にも「建築法違反」の廉で破壊したのでした)。

唯物論というのは、たかだかここ200年ばかりに流行った思想であって、決して普遍的な思想ではありません。はっきり言って間違いです。
また、「政教分離」というのも、普遍的な原理でもなんでもありません。
戦後日本は、あまりにも「宗教=悪」という刷り込み=洗脳がなされて来ているようです。

しかし、日本人は、心の奥底では、神仏を信じているのだと思います。
信仰心が底流に流れているが故に、ほとんどの日本人は、初詣に神社仏閣に参拝し、 お盆にお墓参りに行き、神前やキリスト教会、ある人はお寺で、結婚式を挙げます。さらには、クリスチャンでなくても、クリスマスを祝います。お葬式は仏式がメインかと思いますが、神式、キリスト教式もあります(最近は、僧侶などに頼まない葬式の仕方がはやろうとしているようですが、本来、引導を渡す=死後の世界への導きを与えるのが僧侶の仕事であり、それなりの修行を積んだ聖職者にして初めて可能となる極めて専門性の高い仕事なのです)。
神仏、あるいは目に見えない世界から私たちを見ている存在がある、ということを信じる心が底流に流れているからこそ、あの東日本大震災の際も(阪神淡路大震災のときもそうでした)、決して暴動も略奪も起こさず、静かに耐え、復興に努めることができるのだと思います。その姿に、私たちも感動し、世界も賞賛したのでした。

それを、戦後の誤った教育やマスコミなどの洗脳により、裏側に押し込められ、何やらうさんくさいもの、後ろめたいもの、恥ずかしいもの、弱いもののすること、といったような刷り込みがなされて来ました。
信仰ある人々が、それを表立っていうことを恥ずかしいと思うような、そんな操作が功を奏して来たのです。

しかし、人間が本来持っている性質、仏性あるいは神性から生ずる神仏を求める心を誰が止められましょうか?

私たちは、今こそ、「神のものを、カイザルの手から取り戻すとき」と考えます。

地上の人々の幸福を願って止まない存在、神仏が、人類が不幸の闇に沈もうとしているのを、黙って見ているはずがないのです。
神仏は、その代理人を地上に送り込み、その栄光を、地上に実現せんとしておられるのです。
神仏が人々の幸福を願っておられるならば、それは民主主義の理想と相反するものではなく、むしろ一致するものであるはずです。
単なるポピュリズムではなく、利権屋などでもなく、むろん、独裁者などではなく、全人類を幸福にしたいと願う神仏の意を対した政治家(それを哲人政治家と言っても、宗教政治家と言ってもいいと思いますが) の登場が俟たれます。

切実に思うことは、宗教心を失い、魂を共産主義国に売るようなことがあれば、チベットで展開している地獄図絵は、明日の我が身かも知れない、ということです。
神仏の栄光をこの地上に実現すること、すなわちすべての人類が幸福に人生修行を遂げられる、愛の星・地球をつくるために、不肖私も、浅学菲才の身を顧みず「宗教政治家」を目指して、努力精進してまいりたいと願います。

本日(9日)夕方、野々市市新庄2丁目交差点にて、辻立ちを致しました。

野々市市新庄2丁目交差点にて

野々市市新庄2丁目交差点にて

下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2014 05 09 野々市市新庄2丁目交差点辻立ち

5/3白山市徳丸交差点での辻立ち動画です。

↓ ↓ ↓


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いささか唐突ですが、塩野七生氏からの孫引きですが、カエサルは「ガリア戦記」のなかで、ガリアとゲルマンの風俗の違いを論じています(塩野七生著「ローマ人の物語10 ユリウス・カエサル ルビコン以前[下]」、新潮文庫)。

当時のガリアは、一部はローマに抵抗している部族もいるが、かなりの部族はローマの覇権を認め、ローマ化、すなわち文明化しつつありました。それでもごく一部の、祭司階級と、軍事を受け持つ騎士階級に支配され、平民階級は何ごとも自らの意志ではやれず、集会の出席の権利もなく、それでいて重税を課せられる、ほとんど奴隷と同程度だったようです。

一方、ゲルマン人は、狩猟と戦闘に明け暮れ、農耕には、ごくわずかしか関心を示さない。狩猟のために移動し、定住しないからですが、土地を私有しない。生活基盤は家族になく、親族以上の規模の共同体におかれる。
彼らの理由によれば、定住は、戦いよりも農耕に熱心になり、私有地を認めれば、貧富の差を生じることになる。持てる者と持たざる者とが生まれるということですが、その最大の弊害は、金銭への執着と社会不安であるといいます。これらを認めなければ、平民階級も不満を感じず、平穏に暮らせる、つまり、反乱も起きまいということでしょう。

未開の時代であろうと、現代であろうと、共産制社会とは、結局のところ、こういう社会であろうと思います。

貧しさの下の平等―。平等である(ことを装う)ためには、貧しくなければならない(あるいは貧しさを装わなくてはならない)のです。
そして、全くの平等など存在せず、ごく一握りの支配者階級に支配され、被支配者層の自由は抑圧されます。

私は、平等だが皆が貧しい社会より、格差はあっても、豊かな時代の方が望ましいと思います。豊かさを求めれば、格差が生まれます。それは、2千年前のゲルマン民族も知っていたことでしょう(もちろん、ローマ人も)。ローマ人とゲルマン人の差は、したがって、格差はあっても文明の恩恵を受ける方を選択したか、それを拒んだかの差ではないかと思います。

世界で、電力の供給を受けていない人口は何と14億人だそうです。中国の全人口と同じくらい(地球人口の5人に1人)の人々が電気のない暮らしをしているのです。普通に電気のある生活、というのは、決して当然ではないのですね。
豊かさは享受したいが、格差は嫌だ、というのは駄々をこねる子供のような理屈ではないでしょうか。

より良い選択は、格差を否定して豊かな人を引きずりおろすことではなく、さらに文明を進歩させ、豊かな人を増やしていくことだろうと思います。
20数年前、ショルダーバッグ大の「携帯電話」や自動車電話を持っていた人は、ごく少数の富裕層でした。しかし今や、中学生でも携帯電話を持っています。さらに高機能・多機能化したスマートフォンにまで進化しています。
私たちは、百年前の王侯貴族よりも、格段に豊かです。多くの場合は、そうした豊かさのなかでのどちらが多いか少ないかを論っていると言ってよく、電気も通じていない地域の人々から見たら、贅沢な悩みに見えることでしょう。

どれだけ文明が進化し、社会全体が豊かになっても、自分より富める人への嫉妬は、永久になくならないかもしれません。しかし、それは、裏を返せば、実は自分もそのようになりたいという心の現れでもあります。
しかしそれは社会や国家の責任ではなく、個々人の心のコントロールの問題です。正しい方向は、豊かな人に嫉妬し、引きずりおろすことをよしとするのではなく、自分もそのように豊かになりたいと思い、努力するべきであり、国家としては、そういう方向に善導するべきでしょう。
ここに、正しい宗教が介在する必要性が生まれてきます。

人生は、この世限りではありません。この世の人生を終えても、来世(霊界)での人生が待っており、霊界で一定期間(通常2~3百年)の生活を終えると、またこの世に生まれ変わってきます(転生輪廻)。
この世限りの人生ならば、努力したことが必ずしも報われるとは限りませんが、転生輪廻の法則を受け入れるならば、因果の理法(原因結果の法則)はくらますことはできず、努力は必ず報われます。これが、仏教の基本的な考え方です。

こうしてみると、国家経営においても、宗教的精神(仏教的精神)は必要だろうと思います。
千四百年前に「仏教立国」を成し遂げた、聖徳太子の慧眼、恐るべし。

十四に曰はく、群卿百寮、嫉(そね)み妬(ねた)むこと有る無(なか)れ。我既に人を嫉めば、人亦我を嫉む。嫉妬(しつと)の患、其の極りを知らず。所以(ゆゑ)に智己れに勝(まさ)れば、則ち悦ばず。才己れに優(まさ)れば、則ち嫉妬(ねた)む。是を以て五百(いほとせ)にして乃ち賢(さかしびと)に遇はしむれども、千載(ちとせ)にして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば、何を以てか国を治めむ。(十七条憲法)


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どちらか一つだけならまだしも、同時に二正面から来られるから厄介だ。
「内憂」と「外患」、同時に来襲しているのが(だからこそ「国難」というのだが)我が国の現状だ。

〇「内憂」の一つ:「脱原発」を加速するかのように発見されたという敦賀原発地下の活断層。40万年物の活断層が見つかった、だから再稼働できない、と騒いでいる。
笑止な話である。活断層というのは、かつて地層がずれたというあとだろう。そこが再びずれる可能性があるということなのだろうが、それは40万年後かもしれないし、10年後かもしれないし、明日かも知れないし、今日かも知れない。そんなことを気にしていては、この地上に何一つ建てられない。
明らかに、今にも崩れそうな山の斜面やがけっぷちに立てるというなら問題だが、人は、地震などが起これば液状化を起こすこと明らかな埋め立て地にだってマンションなどの建造物を建てたりするこ生き物なのだ。
活断層の上に立っていることが危険ならば、原発に限らず、その上に何が建っていても危険なのだ。
さらに言えば、日本中、厳密に言えば地層が動いたところなどないのではないか。「危険だから、何もするな」というのは、この地上における一切の生命活動さえ否定されることになる。つまり、「生まれて来るな」ということになる。

いくら文明が進歩したとはいえ、人がこの世で生きる以上は、何らかのリスクを背負って生きることを運命づけられているといえる。
全くリスクのない人生などあり得ないし、あったとしたら、全くつまらない人生だろう。リスクを恐れてそれを避けて生きる臆病な人生よりも、いかにリスクをコントロールするか、ということの方が大事だろう。それによって、人は経験と、知恵と勇気を身につけることができる。

もし仮に、それが立っている地盤が危ないということが分かったならば、それが原発であれ何であれ、選択肢は3つぐらいあると思う。
一つは、撤去する。二つ目は、移転する。三つ目は、安全対策を強化する。
一つ目は、それが不要と判断される場合だろう。しかし、原発の場合は不要ではない。この寒い冬の景色を見るにつけても、特に北海道や日本海側の人々は電気が来ないということは、死を意味するということを実感することだろう。少なくとも、代替エネルギーが担保されるまでは原発は必要である。
二つ目の選択は、コストがかかる。ことに原発に関して言えば、それまでも安全対策も含めて、多大な資金を投入しているであろうから、これを全くゼロからやりなおさなければならない。
三つ目は、さらに安全性を高めることであるが、原発に関して言えば、たとえば火力発電所よりも安全対策が劣っているとは思えない。原子炉自体は強固な格納容器に入っており、強大な圧力及び放射線の放散を防ぐ障壁になっている。これが割れたりすることはまずない。ころがったりしてもどうということはない。問題は数々の配管のところであろうから、ここを一層強化することだろう。
「夢のエネルギー」は、そのエネルギー量が膨大なるがゆえに当然危険性も伴う。それを上手にコントロールすることこそ、人類の叡智であり、文明であろう。いたずらに怖れてはならない。
そうした選択肢を検討することなく、即再稼働不可、廃炉という結論しかない、というなら、ある種の言論封鎖だろう。

一連の原発騒動は、「原発=怖い」「放射能=悪」というステレオタイプの反応をするよう、世論誘導、もっとはっきり言えば(言葉は悪いが)洗脳されていることに起因する。
はじめに「原発を無くす」という結論ありき、で誘導されているように思われる。
こうした情報操作は他にもある(たとえば「宗教=悪」という刷り込みも)。これをもって「内憂」という。
この「マインド・コントロール」を解かなければ、日本は自由を失い、死滅する。

〇そして「外患」の一つ:北朝鮮のミサイル発射という暴挙。それに対して、相変わらず「遺憾の意」を表明するだけで、何もできない日本政府。
韓国政府筋の情報を鵜呑みにして、ミサイル発射を延期したと本気で信じていたならば、「平和ボケ」もここに極まれり、である。
結果として、迎撃せずに、打ち落とさずに終わった。こちらの方が「遺憾」である。
いまは「立正安国論」(日蓮)風に言えば、「他国侵逼(しんぴつ)難」の時である。
北朝鮮はもとより、軍事拡張を続ける中国。
「中華帝国主義」の復興を明言し、先軍政治をよしとしている習近平氏は、世界にとって恐るべき相手と思うが、彼を軽く見る識者も意外と多いのは気になるところである。

日本はもう「遺憾の意」は禁句にし、サムライ国家として復活し、毅然として言うべきことを言わなければならない。

北朝鮮に対しては、「そのような無謀なミサイル実験を繰り返すならば、貴国を『我が国憲法9条の適用除外国』と見なし、我が国の主権と、国民の生命・安全・財産を守るため、直ちに報復攻撃をするであろう」と。

中国に対しても、経済交流だけを重視して、それが断たれることを恐れて、言うべきことを言えないならば、単なる「商人国家」「町人国家」であり、他国に軽んぜられるだけである。
国防を同盟国に丸投げにして、「守ってください」と言っても、この期に及んでも沖縄では、「米軍出ていけ」「普天間基地県内移設反対」の世論では、ばかばかしくて、誰が本気で守ろうと思うものか。

ついでに言えば、この期に及んで「道州制」ももはや既定路線で、是か非か、が十分論ぜられることなく、「政党間で温度差」と報ぜられている。
だがこれは、結局のところ、「主権分断作戦」であり、国防の弱体化を招くこと明らかである。
どこかで、何らかの意図が働いて情報操作されているとみるべきだろう。

日本が、このような「商人国家」「町人国家」に堕し、自己中心で、世界の中で果たすべき役割を果たしていないこと自体が、このような「国難」を招いている根本原因ではないかと思う。
そして、日本がその果たすべき役割、崇高な使命を果たすためには、人間心を超えた、崇高なるものへの尊崇の念が不可欠であると思う。
日本は、それが忘れ去られて久しいのだ。

かつて聖徳太子は、神道と仏教を融合した宗教立国を実現されたが、いままた日本は、世界の諸宗教を融合した、新たな宗教立国を実現しうる立場にある。
これこそが、日本がこれから世界を平和と繁栄に導くという崇高な使命を果たすために必要なことである。

いま直面している国難は、見方を変えれば、私たち日本国民を真に目覚めさせ、鍛えてくれているものであるとも言える。この試練を見事乗り越えることで、我が国はさらに強く、逞しく、世界のリーダーとして成長するものでありたいと願う。
「日本よ、日本人よ、目覚めよ。そして使命を果たせ」。
天意はそう激励している。


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大川隆法総裁著『神理文明の流転』(幸福の科学出版、1992年)に、「未来への聖戦」という章が載せられています。
この章は、1990年12月、大阪での講演会がもとになっています。
以下、その一部を引用します。

それぞれの民族、国家に長い歴史があり、彼らの考え方があります。その考え方に基づけば、どのような行動をとるのか、どのようなことが彼らにとって正義と見られているのか、ということを知らねばなりません。そこに複数の正義がぶつかることもあります。

そのときに私たちが見抜いてゆかねばならないことは、次なる時代において正義と見なされるほうを選択してゆかねばならなくなる、ということなのです。

その時点では、どちらに賭けるべきかわからないけれども、時間の流れのなかで、どちらの選択を採ったほうが、結局より多くの人びとの幸福につながったかというところに、すべてが収斂してゆくことになります。

この考え方からいきますと、これから日本という国が果たさねばならない使命というものは、かなり重いものになってきます。その重さはいかほどでしょうか。

世界の百数十ヵ国の国の大部分が、今後、戦争、あるいは飢饉、天変地異によって飢えてゆくことになりますが、こうした飢えた国家は、放置しておくと必ず共食いを始めるのです。これが各地で起きる戦乱です。これからは、隣の国を奪うぐらいは平気でするようになってきます。

それは国家レベルの話であるために、なかなか信じ難いことでしょうが、一歩、国家から離れて、企業の世界を見てみると、今のアメリカなどで起きている企業の買収、M&Aというのは、結局、国家を乗っ取ることと同じなのです。

これは手っ取り早い経済なのです。乗っ取ってしまうのです。会社ごともらって、自分の会社に入れてしまうわけですから、これは国を併合してゆくのとまったく同じ論理なのです。かつてのその会社の歴史や文化というようなものは関係がないのです。トータルで利益が出れば、会社を買収して併合してしまうわけですから、これは国の併合とまったく同じ論理なのです。

では、経済論理としては通用していて、国のレベルではなぜ行なわれないのでしょうか。それは、国が大きな軍事力を伴っているために、リスクが大きすぎることもあって行動としては鈍っているだけなのです。

しかし、諸国民が飢えるような状況が出てきますと、これから、このようなことは日常茶飯事になってくる可能性があります。国家の分断、奪取、このようなことが行なわれてゆきます。

前述のソ連でもそうです。今度は独立しようとする小さな共和国などが、さまざまな利害を持った国から狙われるようになり、ソ連から取ろうとする動きが出てきます。他の新しい勢力によって、豊かなところが狙われるおそれが出てきます。

そのときに現われてくるものは何でしょうか。それは世界の混沌であります。このような段階の時期においては、強力なリーダーが出てこない限り、世界をまとめることはできないのです。

多くの人びとは平和平和と言いますが、それは何もしたくないという「厭戦」というだけの平和では済まないのです。そういう状態になってきたときには、それでは済まないのです。その平和の理念を具体化する行動を取らない限り、実際に平和を愛することにはなってゆかないのです。

したがって今、日本に必要とされることは、世界百数十ヵ国が飢えたときに、これを食べさせていけるかどうかという考えがひとつあります。経済大国の日本が、彼らを援助し、育て、守ってゆくことができるかどうか、これは非常に大事なことです。飢えれば、人は殺し合いを始めます。戦争を始めます。

しかし、日本の経済の現状を見て、いかがでしょうか。あのアフリカが、中東が、中国が、ソ連が飢えたときに、日本はこれらの国々を支えられるでしょうか。

一方のパートナーであるアメリカは今、国家衰退の危機にあります。経済的にはすでに、完全に下降線に入っています。そしてこれは、もしブッシュ政権がこの中東において間違いを犯した場合には、アメリカという国家は、この十年ぐらいで完全にスーパーパワーから一列強国に陥ります。判断を間違ったら必ずそうなります。

そして、世界のGNPの二十五パーセントを持っているアメリカの経済も、衰退を余儀なくされていきます。他の国を救える国がなくなるのです。そのときにどうするのかということです。

日本の経済は、今、GNPで世界の十五、六パーセントぐらいですが、私は、二十一世紀のはじめに、だいたい世界の三十パーセントから四十パーセント近くにまで近づいていくと思います。おそらく四十パーセントくらいがピークです。

そのときに、はたして世界を支えるだけの全世界経済構想をつくることができるか否かです。もし全世界が食べてゆけなくなれば、あり余る武力でもって、あちこちで侵略が起きます。これがひとつです。

22年前の講演の内容ですが、見事にその後の20数年、一部はその予言が成就しており、またそれ以外の部分も、十分可能性ある近未来として見て取れます。

  1. 複数の正義がぶつかっている→現実に、ユダヤ・キリスト教合体文明と、イスラム教文明の激突が起きている。あるいは、共産主義文明と自由主義文明の衝突。
    したがって、次なる時代において正義と見なされる方を選択してゆかなければない。
    それは、神仏の理想を体現する(「宗教」という言葉に抵抗があるならば、百歩譲って)「高い精神性」に裏打ちされた上で、自由と民主主義的な価値観は維持されるべきだろうと考える。
    これを、我らは「宗教立国」と呼ぶ。
  2. 世界百数十カ国の大部分が、今後、戦争、飢饉、天変地異によって飢えてゆく。飢えた国家は、放置しておくと必ず共食いを始める。国家を乗っ取ることは、企業のM&Aと同じこと。→イラクによるクェート侵攻を端緒として、一部では起きつつある。13億人を超える超巨大国家・中国が飢えるようなこと(食料の飢えだけでなく、エネルギーの“飢え”によっても起こりうる)があると、まさしく国家の分断、奪取などが起こりうる。既に資源を持つ国を取り込んだり、主権を侵害したり、シーレンを抑えるという行動をとりつつある。
  3. 「平和」とは、ただ平和を唱えればよいというわけではなく、その理念を具体化する行動をとらない限り、それを愛することにはなっていかない。→2010年の尖閣沖の中国漁船衝突事件ひとつを例に挙げれば十分だろう。もはや「戦争を放棄する」と宣言すれば戦争に巻き込まれることはない、などということは誰も信じないことは、良識ある人であるならば、誰でも認めるところだ。
  4. パートナーであるアメリカが国家衰退の危機(経済的には既に完全に下降線、というのも事実。ブッシュ(講演当時は父ブッシュを指す)政権が中東において間違いを犯したかどうかは、90年からの10余年、まがりなりにもスーパーパワーの座を維持してきたことを見れば、決定的な間違いは犯さなかったと言えるかもしれないが、このブッシュをオバマに置き換えれば、この10年で、アメリカが一列強に陥る危険は十分ある。
  5. 世界の平和と安定に貢献することを日本のミッションとするならば、まず、経済力の側面からは、これからの日本に必要とされることは自明である。世界百数十カ国が飢えたときに、経済大国として、支えることである。すでにギリシャの財政危機を救い、EU発世界恐慌を止めるぐらいの経済力を日本は持つ。さらに、日本のGDP(22年前はGNPと言ったが)を世界の40%近くにまで持っていく覚悟がいる。その前提として、世界を支えるだけの、全世界経済構想をもっていなければならないのは当然のことである。それは、現政府にはないが、幸福実現党の掲げる政策の中には、実は入っているのである。

以上、日本が世界平和に貢献するというミッションを、主として経済的側面から見てきましたが、それはある意味で(現状の、長期デフレ不況・増税路線・経済成長戦略なし、の三重苦状態ではこれとて決して容易ではないのだが)、次のより本質的な課題克服に比べればはるかに容易と言えます。

それが即ち、多様なる価値観、多様なる正義を、包摂・統合する、全地球的に共通する価値観を樹立する、という壮大なテーマです。

多様なる人々が、多様なるままにお互いを理解し、永遠の神に向かって向上していける思想を打ち出すこと。
そしてそれができるところは、全世界に幸福の科学以外に絶対にないと信じるものであります。

まだまだ世間一般では、幸福の科学は新興宗教の一つであり、その教勢拡大のために、政治や学園事業に手を出しているように思っている人がいるかもしれません。

しかし、立宗した翌年の5月、1987年の第2回講演会「幸福の原理」等で大川総裁が明言している通り、我々は一宗一派を興すために活動しているわけではないのです。

世界の人々が、真に自由と繁栄を享受できるような、平和な愛の星・地球の建設を目指しているものです。

そのような、地球規模での文明を創っているのだという事実が、やがて年を経るとともに明らかにされてゆくことでしょう。


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3年前の4月30日、
幸福の科学グループ・大川隆法創始者兼総裁の「幸福実現党宣言」により、
私たちは本格的に政治活動に参入することとなった。

そして、5月23日の幸福実現党立党。
2009年、あの暑く、熱い夏を駆け抜けた記憶は、
一生の、否、幾転生を貫く勲章となるだろう。

しかし、あれはまだほんの、
“始まりの始まり”に過ぎなかった。

日本は、そして世界は、幸福実現党の
(と言うよりは、国師にして世界教師・大川隆法総裁の)
訴えたとおりに展開しつつあるわけだが、
国難未だ去らず、
世界は混沌のさ中にある。

そして、今年、
映画「ファイナル・ジャッジメント」公開を1か月後に控えているが、
しかし、まだまだ“ファイナル”などではない。

真理の戦いは始まったばかりである。

この国の政治に一本、精神的主柱を立てたい。

これが私のかねてからの願いである。

精神的主柱がなければ、国家は漂流し、

無告の民は、不幸のどん底へと突き落とされる。

この国の国民の未来を照らす光となりたい。

暗黒の夜に、不安におののいている世界の人々への、

灯台の光となりたい。

国を豊かにし、邪悪なるものに負けない、

不滅の正義をうち立てたい。

人々を真なる幸福の実現へと導いていきたい。

この国に生まれ、この時代に生まれてよかったと、

人々が心の底から喜べるような世界を創りたい。

ユートピア創りの戦いは、まだ始まったばかりである。

しかし、この戦いに終わりはない。

果てしない未来へ、はるかなる無限遠点を目指して、

私たちの戦いは続いていくだろう。
(「幸福実現党の目指すもの」/大川隆法著『幸福維新』より)

あの時、人柱になろうと決意した、
初心を忘れず、努力していきたい。


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23日発売の週刊ポストが「完全解剖 日本の宗教 カネと実力 タブーに斬り込む!」という17ページにわたる大特集を展開している。「宗教にお金が集まり、大きな施設を持っている」という表面的な見方しかしていない上に、そもそも事実誤認や誤解に基づく記述が多い。

事実誤認や誤解の多い無理筋の議論 週刊ポストが宗教課税を主張 | ザ・リバティweb – 幸福の科学出版 | 幸福の科学・幸福実現党

いつも大変勉強になるザ・リバティwebのDaily News Clipだが、今日は特に、重要論点満載。

まず、標記の記事。

石村教授の「宗教活動はそもそも課税の対象にならないから、そこから取らないことをもって特権とは言えません。」というこの一言が、すべてでしょう。

本誌が言う「宗教がなぜ非課税であるかは、根本的には、文字通り、宗教が『聖域』であるからだ。宗教は神仏の導きを受けながら、共に人間の魂を救う仕事をしている。そこに徴税権力や警察権力が入り込むことは世俗の穢れを持ち込み、神仏の活動を邪魔することになる」ということが理解できなくなっているということは、日本がいつの間にか、唯物論国家になってしまっていると言えるのではないでしょうか?

「政教分離」規定についても、まことにその通り、議論の余地はありません。

目に見えない尊いものを信ずることができずに、ただ多数決で物事を決することをもって民主主義とするなら、それは誤った民主主義であり、衆愚政に堕すか、ギロチン型大量処刑民主主義となってしまうのではないでしょうか。

信仰が、民主主義に高貴さを与えるものと考えます。

ますます「宗教立国」の実現が急がれます。


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