私の意見, 私の政策
03 September

宗教の復権についてー信仰は大事です

あっという間に8月が過ぎ、9月になりました。

あの暑かった日々はなんだったのだろうと思うぐらい、過ごしやすくなりましたね。

8月お盆、9月は秋のお彼岸ということで、先祖供養の機会も多いと思います。

私は宗教家の端くれとしてお通夜や葬儀に関わる機会も多いのですが、宗教の違いを超えて、葬儀、葬送ということが行われます。

近年はこれを簡略化して、僧侶無しで家族葬で済ますとか、お墓に納骨せずに散骨や樹木葬といった形で済ませることも増えてきたようですが、本来、葬儀における僧職者の役割は、故人をあの世にきちんと送る(引導を渡す)ことであります。「死ねば何もかも無くなる」という人生観では、遺族の心を慰める、という意味以外に、葬儀の意味はありません。
宗教の本質は、もちろん生きている人間の心の救済ということが中心ではありましょうが、人生を終えるに当たって、きちんと死後のケアまですることによって、宗教としての役割が完結するものと思います。

この辺りの考え方が、戦後74年を経て、非常に脆弱になってきたように感じます。

それでも、お盆やお彼岸に、お墓詣りの習慣がずっと続いているのは、せめてもの救いのような気がいたします。

戦後、GHQの政策により、宗教(主として国家神道)と政治の分離が徹底して行われ、宗教の立場が非常に弱くなりました。

逆に言えば旧日本軍の強さの秘密は、宗教にあったとアメリカは看破したということでしょう。

政治から宗教を排除する狙いは、日本の弱体化にあったのです。

しかし、朝鮮戦争等を経て、日本弱体化は、防共(共産主義の拡張を防ぐ)という観点から間違いであったということに気づいたマッカーサーは、日本に再軍備を要請しますが、当時の吉田茂首相はこれを断ります。つまり、日本は軽武装はするけれども国防の主たるところはアメリカに任せ(アメリカを番犬に使う、というような表現を彼はしています)、我が国は経済復興に専念する、という所謂“吉田ドクトリン”ですね。

しかし、これでは真の独立国、主権国家とは言えません。国防の大事なところはアメリカ任せなのですから、ある意味で属国のような立場です。アメリカが日本を守る意思を放棄したらどうしようもありません。

今、朝鮮半島、中国と香港・台湾問題、さらに中東と、紛争の種は尽きません。我が国は、「自分の国は自分で守る」意志が必要です。

私たちは、国防強化、憲法改正を訴えていますが、より本質的に、強い国家を目指すならば、宗教の復権が不可欠であると思うのです。

それは、単なる国家宗教の復活ではありません。

大東亜戦争で日本が敗れた宗教的な理由は、日本の国家神道は、世界宗教たりえなかった、だから、日本国外に広がらなかった、ということです。

しかし、だからと言って、日本神道に世界宗教性がないということではありません。

“八紘一宇”(「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」、これなどはアジア侵略を正当化するためのスローガンと捉えられておりますが、原典(『日本書紀』)に書かれていることを素直に読めば、全世界のすべての民族が一つの家のように仲良く暮らす、という意味で、グローバルな価値観たり得るでしょう。

中東地域では、再びキリスト教・ユダヤ教合体文明 vs. イスラム教文明の激突の様相を呈しております。

これを戦争に依らずして仲裁する方法はないものでしょうか?

マルクスの共産党宣言以来、ここ150年ほどの文明実験で明らかな通り、唯物論では平和も繁栄も実現できないことは明らかです。ゆえに、唯物論国家とその思想では仲裁不能です。

いま必要な“宗教の復権”とは、日本神道も、仏教も、キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教も、あらゆる宗教の違いを超えて、地球人としての一つの意識を持てるような教えによって世界平和をもたらすこと、真の意味での、また新しい意味での“八紘一宇”の精神そのものだと思うのです。

すなわち、イエス・キリストが「天なる父」と呼んだ存在、ムハンマドが「アッラー」と呼んだ存在、ユダヤ教における偏狭な嫉妬の神(民族神と思われる)ヤハウェではなく、エローヒムと呼ばれる普遍的な愛の神、また日本神道における天御祖神(天照大神以前の根源なる神)、そして仏教における久遠実成の仏陀または大毘盧遮那仏は同じ神(仏)であるという真実を知ることによって、宗教の違いは超えていけます。

幸福実現党は、こうした宗教の違いによる争いを仲裁し、世界平和を実現するというところまで射程に入れて、活動をしている政党であるということを知っていただければ幸いです。

 

動画は、今朝の辻立ちの一部です(白山市・安養寺北交差点にて)。