私の政策
04 June

「集団的自衛権」は「集団的侵略権」ではない。

「集団的自衛権」とは、「集団的侵略権」などではありません。
憲法以前に、国際的に認められている権利です。
目くじら立てて反対する理由など、ありません。
「集団的自衛権は、あるけど使えません」などという不可解な解釈が何十年もまかり通って来たこと自体が異常です。
これ、英語で訳すとき、どうしてるんでしょう?

憲法の解釈なんて、それ以前に、憲法自体も、永遠不滅の普遍の真理などでは全くありません。
軽んじるつもりもないが、しょせん人間が、人間世界で生きていく上でなるべく争いや諍いが起こらないように、起こったとしても、早めに丸く収まるように、と考えて作られたものでしょう。
神ならぬ身の人間が作ったものである以上、完璧であるはずがない。
ならば、時代や環境の変化に合わないものであるならば、対応できるように速やかに変えればよろしい。
仏神から降ろされたはずの、モーセの十戒も、ムハンマドのコーランも、イエスの言葉も、孔子の論語も、釈尊の仏説も、普遍の真理がちりばめられてはいるが、二千年も三千年も経つと、さすがに現代ではそのまま通用しない部分があるのだから。
それゆえに、そうした世界宗教でさえ、数百年か千年単位で、中興の祖や宗教改革者が現れて、変革して来た歴史があるではないですか。
神や仏の言葉でさえ、時代によって変遷するのです。

私たちは、北朝鮮の核ミサイルの暴走や、中華帝国主義に備えよと訴えるものですが、
「そんなミサイルがいつ飛んでくるの?」と冷笑する人もいます。
いつ飛んでくるかは分からない。しかし、だからといって備えをしないのは、「地震などいつ起こるか分からないから備えなどしない」と言っているのと同じく、愚かなことだと思います。
そんな愚かな人が、「選良」と呼ばれる方々の中にも少なからずいらっしゃるのだからあきれてしまいます。
本来、憲法改正が筋だとは思いますが、「いつミサイルが飛んでくるか分からない」状況であれば、悠長なことは言っておれません。
取り急ぎは、解釈の変更で乗り切るしかないではありませんか。

平和主義も結構ですが、相手はそうではありません。軍事拡張を続けており、アジアの脅威となっております。
あまりに宥和的に譲歩を重ねると相手の増長を招き、かつてのナチス・ドイツによるヨーロッパ各地への侵略のように、取り返しのつかないことになりかねません。

やはり、日本は、アジアのリーダーとして、一日も早く集団的自衛権の行使を容認し、アジアの平和と安定に貢献できるようにならなければなりません。

昨日夕方、白山市徳丸交差点にて辻立ちを致しました。

白山市徳丸交差点にて(1)
白山市徳丸交差点にて(1)
白山市徳丸交差点にて(2)
白山市徳丸交差点にて(2)

下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2014 06 03 白山市徳丸交差点での辻立ち
(マイクの電池が突然切れて、中途半端に終わっています)