集団的自衛権のワナ?
集団的自衛権のワナ
集団的自衛権のワナ 第1次世界大戦100年の教訓 (丹羽宇一郎氏の経営者ブログ) :日本経済新聞
「集団的自衛権」そのものの問題ではない。
この人の考えは、「刃物を持つと危ないから、持たないようにしましょう」「自動車を運転すると交通事故をこすかもしれないから、運転しないようにしましょう」と言っているのと変わらないレベルではないか、と思ってしまったのは、次の文章。
第1次世界大戦が今で言う「集団的自衛権の相互行使」によって、欧州だけでなく世界が2つの陣営に分かれて泥沼のような戦争にはまり込んでしまい、甚大な被害を招いた側面があるからです。
集団的自衛権行使の連鎖が閾値(いきち)を超えてしまうと、今度は戦争の連鎖を起こすという「集団的自衛権のワナ」と呼ぶべき現象が根本にあったと思います。
そして、次の文を読むと、日米同盟を否定しようと、一生懸命論理を立てているようにも見えます。
集団的自衛権を行使して日米同盟が双務的なものになれば、東アジアで有事が勃発した場合に米国をより頼みにできるという期待はあるかもしれません。一方で、例えばウクライナやシリアのように日本とは直接利害関係のない場所で米国が軍事的支援を必要としたときは、日本は派兵を求められる可能性も出てくるわけです。日本と戦火を交えたことがない国にも派兵すれば、その国の日本への対応は変わってくるでしょうし、「敵国」と認識されることになります。この構図は第1次世界大戦以来、さほど変わってはいないのです。
同盟を結ぶ以上、これらのことは、当然受け入れるべきリスクであり、これがいやならそもそも同盟などするべきではないと思うのです。
おそらく世界中のどこでも、国家のリーダーたちは、そうなる可能性はあることを受け入れつつも、それでもこの同盟は必要だと判断をし、同盟を結んでいるのです。
第一次世界大戦のときは、日英同盟に基づき、日本も参戦し、軍事的には”先生役”の時期もあったドイツを敵としました。
その後、第二次大戦時には、今度はドイツと同盟を結んだのでした。
その選択の結果がその国にとって良かったか悪かったかは、国家のリーダーが結果責任を負う必要はあるのですが、このような変転は国際政治ではよくあることでしょう。
「戦争は嫌だ。絶対反対だ」と唱えてさえいれば、戦争は起こらない。たとえ世界のどこかで起きたとしても、巻き込まれることはない」というならば、そんな楽なことはないのですが、世の中そううまくはできていません。
「戦争はいやだいやだ」と言っいてたヨーロッパ諸国が、戦争を避けるために、次々とドイツに割譲を許し、あっという間にドイツに席巻され、結果、第二次世界大戦へと突入していった事実を、丹羽氏はどう見るのでしょうか?
毎年、軍事費10パーセント超の成長を続ける中国の軍拡を、自国の防衛を強化することなく(外交努力はするにしても)、指をくわえてみていなければならないとは。
その外交努力も、背景に武力がなければどれほど立派なことを言っても、結局は虚しいものです。虚空に吠える犬の遠吠えにも似て。
座して死を待つのか、隷属に甘んじ、卑怯者国家として(国家とは呼べなくなっているかも知れませんが)生き延びるのか?
数千年の歴史を誇り、サムライ精神を根底に持つ国としてはかなり恥ずかしいことです。
丹羽氏は、日本人のなかにこういう発言をする人が(しかも大使まで努めた著名人に)いることで、中国を油断させる役割を担って、わざとこのように言っていると信じたい。
駐日大使時代に、国旗を奪われるという、万死に値することをされたので、その罪を償うために、必死でそのような演技をしているのだと信じたい。
どの主権国家にも認められている、集団的自衛権の行使に反対もしくは慎重であれ、という主張は、日本だけが、「○○に刃物」のように、行使させるのは危険だ、との論理であり、その底流には、”自虐史観”が脈々と(滔々と、かも知れません)流れているようです。
日本は、正当なる誇りを、取り戻さなければなりません。
8日の朝は、これまた久しぶりに、野々市市で辻立ちを致しました。
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