「もんじゅ」がんばれ
高速増殖炉「もんじゅ」は日本の繁栄と安全に不可欠 実用化断念はありえない
政府が高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の実用化に向けた目標を、白紙にする見通しだという。高速増殖炉は発電しながら核燃料を生み出す「夢の原子炉」として期待されているが、2月中に閣議決定するエネルギー基本計画には盛り込まれない予定だと、7日付日経が報じた。
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「もんじゅ」と敦賀原電を見学して来た2日後にこのようなニュースが流れるとは、何とも象徴的だなあと思います。
つくづく、日本人には「原発アレルギー」が蔓延しているのだなあと、強く思ってしまいます。
あそこまでつくっておいて「無駄だからやめろ」とは、なんだか八ツ場ダム建設を中止した件を思い出します。
高速増殖炉のエンジニアの皆さんや、原子力発電所のメインテナンスに努めておられる皆さんは、非常に真摯に、努力しておられる。
非は非、努力不足は努力不足と認めておられ、非常に謙虚に見受けられる。
ある意味、使命感を持ち、黙々と、苦難に耐え、誤解や非難に耐えておられるように感じられます。
日本人の考えは、「原発は危ないもの」「ないにこしたことがない」が主流のように思われます。
「反原発」「脱原発」は非現実的、と考えている人であっても、日本のエネルギー事情等を考えると止むを得ず、であり、再生可能エネルギーで代替できるなら、それにこしたことはない、と思っておられるのではないでしょうか。
こうした空気の中で、「原発推進」(もちろん、安全性をいっそう高めるのは大前提であるのですが)を唱えるのは、客観的にみても、勇気のいることだと思われます。
幸福実現党の政策にシンパシーを感じてくださる方であっても、この一点、原発推進、に関しては、拒絶する人が少なからずいらっしゃいます。
そんな人に、焼き肉を食べながら、「原発を止めたら、やがて焼き肉も食べられなくなりますよ」と言っても、なかなかピンと来ません。
全くの好意から、(原発推進を)「言わなければいいのに」と忠告してくださる方もいらっしゃいます。
そんな強い「風圧」を感じながら、 「言わずに済むものなら、言いたくないよ」と、ついつい迎合したくなることも、ないわけではありません。
原発だけではありません。
国防についても、「武器によるのではなく、言論の力で、平和を勝ち取ろう」という方が、よほど宗教的に親和性がありますし、そう言いたい誘惑に駆られることもないではありません。
しかし、それでは、「普通の」と言って失礼ならば、今までの政治家さんと変わるものではありません。
わざわざ、私たちが、宗教政党を名乗って、政治をやる意味がないのです。
単に人気を取るのみならず、耳に痛いことであっても、言いづらいことであっても、本当に日本の未来にとって、世界にとって、必要なことならば、言わなくてはなりません。
安価で安定的な電力供給のため、安全保障のため、世界の平和と繁栄のため、原子力発電は、どうしても必要です。
今のところ再生可能エネルギーは、非常に効率が悪く、例えば太陽光発電だと、原発1基分に相当する発電量は、山手線の内側分ぐらいの面積の太陽光パネルが必要と言われています。
もしものすごく太陽光パネルの技術が進歩して、原発ぐらいの小さな面積で原発と同じぐらいの巨大な発電量が可能になったら、それは恐ろしく危険な施設になるだろうな、と思うのですが。
新幹線だって飛行機だって速い方がいいと一般には思いますが、それは同時に危険度が増すということも意味します。
ものすごく効率がいいということと危険度が高いということとは表裏一体です。
その危険をいかにマネジメントするか、あるいはコントロールするか、ということが科学技術の腕の見せ所ではないですか。
文明による危険を回避しようと思えば、原始時代に戻るしかなく、原始時代に戻ったところで、台風や地震、津波と言った自然の脅威にはただ黙って耐え忍ぶしかなくなります。熊などの猛獣から身を守るすべもありません。
原始時代であろうと、科学技術が進歩した現代であろうと、危険から逃れることはできないのです。
ならば、危険とうまくつきあい、マネジメントし、コントロールしていくしかないではないですか。
放射線の問題も含めた核エネルギーの問題は、結局、そうしたところに落ち着くしかないと思うのです。
活断層を恐れてみたところで、10万年後に動くかもしれない、明日動くかもしれない、もしかしたら10万年経っても動かないかもしれない、という予測不能なものです。
こうした議論に時間を費やすことががいかに不毛なことか。
動いても大丈夫なようにするか、被害を最小限に抑えるにはどうしたらよいか、ということを考えた方がいいに決まっています。