reblog: 「滝行」で窒息死…
「除霊の滝行」と称して身動きできない状態にした女子中学生の顔に水をかけ続けて死亡させた疑いで逮捕した父親と僧侶を警察はきょう、熊本地検に送検しました。
激しい憤りを感じます。
14歳で今世の魂修行の機会をいきなり断ち切られた無念さ。
間違った宗教の犠牲となられたことは、あまりに哀れです。
ただただご冥福を祈るばかりです。
今回事件を起こしたようなものは、宗教の名に値しません。
そもそも仏道修行においては、心を磨くことを本務であり、滝に打たれたり回峰したりという肉体行は仏道修行の本質とは何の関係もありません。
副次的な修行としてあり得ても、それが修行の本道ならば、よほど肉体が頑強な人しか悟れないことになります。
嫌がる少女を無理やり抑え付け、滝に打たせた一人が父親とあっては、やりきれない気持ちになります。
これほど間違った宗教知識が蔓延しているならば、それを啓蒙し糺すのも、正しい宗教の使命だと思います。
滝行や回峰行そのものは全面的に否定するものではありませんが、それは飛び込みの選手やマラソンの選手が専門的な訓練を経ているように、特殊な修行であり、それが仏教の一般的な修行方法だったとしたら、仏教は世界宗教にならなかったでしょう。
仏道修行においては、教学・禅定(精神統一)によって智慧を得て悟りに到ることを目的とします。
だからこそ、万人が可能な修行方法であり、万人が悟りを得る可能性を有するとされたのです(悟りの階梯はもちろん、人により差はありますが)。
悪霊憑依は現実としてありうることではありますが、それは基本的に滝行で除霊できるようなものではありません。
心のマイナス部分や悪想念に引き寄せられてくるものですから、心を明るく、正しい方向に向け、悪霊と波長が合わなくすることが王道です。
さらに言えば、仏神を強く信じ、仏神の光と慈悲を受けることにより、そうした他力を受けて悪霊を撃退するということも可能でしょう。
今回の事件を機に、宗教全体が怪しげなもの、悪しきものとみなす風潮が強化されないように願うばかりです。
あくまでも、宗教界は自らの自浄作用によって、悪しき宗教を駆逐し、真に人々に幸福と平安をもたらす役割を果たしていかなければならないと思います。
国家や、私企業であるマスコミが宗教を監視したり管理したりするようなことがあってはなりません。
それは、聖なるものの中に、俗世の穢れが入ってくることを意味します。
人間知を超えた、聖なるものを受け入れ、帰依をするからこそ、人間は傲慢にならず、謙虚に精進の道を歩み、仏性相等しき同胞として、愛を与えあって生きることができるのです。
聖なるものは聖なるものとしてあくまで守り抜かなければなりません。
国家や公的機関による宗教の管理のようなことがもし万一行われれば、それはすなわち、信教の自由の侵害となり、宗教弾圧に直結します。
全体主義国家、共産主義国家のごとく、宗教弾圧が行われれば、それは必ず言論・出版・表現・結社その他の自由の制限・抑圧へと進みます。
かくして自由は死を迎えます。
宗教は聖なるものであります。
そして宗教こそが、自由を守り抜く防波堤になるものであります。
かつての唯物論国家・共産主義国家同様、宗教をないがしろにする国家は、滅びに到ることを明言しておきましょう。
この事件を機に、まともな宗教まで悪しざまに言われるようならば、断固としてプロテストしてゆく覚悟です。