菅首相の年頭記者会見に見る、民主主義の危機
菅首相は4日、年頭記者会見で、民主党の小沢元代表の国会招致問題で、小沢氏が実際に強制起訴になった場合、「出処進退を明らかにし、裁判に専念すべき」と述べ、議員辞職も含め、自ら進退を判断すべきとの考えを表明した。
小沢氏の政策や政治手法は毀誉褒貶あり、功罪半ばする。
我々も彼の持つ政治的力量は評価しつつも、全体主義的な傾向や、本来保守本流であったはずの彼が長い野党暮らしの末に身に付けた左翼的な傾向、かつての媚中的な外交姿勢、農家の戸別所得補償などについては批判してきたし、これからも是々非々で非難すべきはするだろう。
しかし、行政の長たる首相が、「強制起訴になった場合、議員辞職」云々の発言に関しては、結論からいえば、民主主義の死に繋がるのではないか。
近代民主主義は絶対主義の所産である。つまり、伝統主義の束縛から自由であり、法的な手続きさえ経れば、財産権、生命権などの諸権利も、自由に奪うことができる、放っておけばまさしく暴力装置たりえる。
かくも絶対なる権力を暴走させないために、三権を分立させるなどして、お互いに牽制させ、バランスをとらせる。
面倒くさいようだが、これは民主主義を維持するために必要なコストだ。
ここで注意すべきは、小沢氏はまだ起訴されてもいないということだ。
日本人は、起訴された段階で、否、逮捕された段階で、あたかも犯罪者のように扱われる傾向があるように感じるが、起訴されても裁判が終わるまでは、犯罪者は存在しない。つまり、刑事被告人は無罪である。
たとえ「誰がどうみても、やつが真犯人に違いない」と思えても、である。
また、日本人は、遠山の金さんや大岡越前のように、容疑者がお白洲の上に引き出されてお上(お奉行)のお裁きを受ける、というイメージが強いせいか、裁判において刑事被告人が裁かれるかのように思いがちであるが、刑事裁判において裁かれるのは、被告ではなく、検察である。
裁判所こそ、行政権力から国民の権利を守る防波堤だからである。
言うまでもなく、検察は行政官僚であり、裁判官は司法官僚である。
行政官僚である検事が、実際上、有罪か無罪かを決めるようなことがあれば、民主主義は死を迎える。
また、行政権力の最高権力者である菅首相が、このような発言をすることは、検察にプレッシャー(この場合は、強制起訴は当然、というような)を与えることになると同時に、裁判において予断を与えることになりはしないか。
これが三権分立を前提とする近代民主主義の根幹を揺さぶることになる。
近代民主主義諸国においては、マスコミも知識人・文化人も裁判に予断を与えることを怖れ、発言を控える。予断が入ると裁判官の真理に影響を与えて公正な裁判ができなくなるからである。
日本では起訴される以前からマスコミも知識人も大騒ぎである。
小沢氏が悪人であるか善人であるかを論じているのではない。好き嫌いを論じているのでももちろん、ない。
日本が民主主義を守る意志があるか否かを問うているのだ。
それは、民主主義の手続き(この場合は、民主主義裁判の手続き)を遵守できるかどうかにかかっている。
なぜこんな面倒臭いことをするのかといえば、裁判において、一人の無辜の民も、刑に処せられることのないようにするためである。
近代民主主義は、膨大なコスト(時間、お金、その他)がかかる。
膨大なコストがかかっても、それでも、独裁制や、貴族制よりもよいというコンセンサスがあるから支持されているのだろう。
もとより、完全無欠なシステムではない。だから、様々な矛盾点や不合理な点が発生する。
しかし、それでも、最悪を防ぐためには、いまのところ、民主主義というシステムがよいとされているのだということを、正しく認識する必要があるのではないか。
民主主義の素晴らしさは、何といっても、国民が政治に参加できるということである。
自らの力で、自らの国を、素晴らしい国へと変えていく事業に参画できるということである。
それが、たとえスプーン一杯の貢献であっても、その国が理想国家に近づけば近づくほど、人々は「この国に生まれてきてよかった」と、生まれ甲斐、生き甲斐を感じることができるのではないだろうか。
さらに付け加えるならば、自由主義のよいところは、そうした政治参加の自由や、信教の自由、言論・出版・表現の自由などの諸自由、諸権利が守られるという点である。
自由と民主主義、その基となるところの信仰、そしてその成果としてもたらされる繁栄、この繁栄を空前のものとしたところに、日本のゴールデン・エイジが出現するだろう。
民主主義の危機、幾多の国難を乗り越え、日本を理想の国となし、ゴールデン・エイジを到来させるために、今年も精進してまいります。