私の意見
25 September

尖閣諸島問題に寄せてー日本よ、世界に貢献するリーダー国家たれ

侵略の危機

歴史的にも、また国際法上も、わが国固有の領土であることは疑いのない尖閣諸島が、200年遅れてきた帝国主義国家・中国に、掠め取られようとしている。

このことは、今回の尖閣諸島での中国漁船による公務執行妨害、その事件に対する、中国側の高飛車な態度、そして拘束していた船長を、「今後の日中関係を配慮して」(那覇地検・鈴木亨次席検事)、釈放したことで、かなり現実的になった。

中国の言い分は、無茶苦茶である。
中国内においては、そのように洗脳し、通用する理屈であっても、国際的には通用しない。
そのような国に対して、弱みを見せては絶対にいけない。

結局、中国の脅迫に対して、日本政府が膝を屈したということか。

民主党政権の外交・安全保障政策のなさは、われわれ幸福実現党が、昨年の政権交代以前から警告していたことだが、そのことが普天間基地移設問題に続いて、さらに明らかになった。

毅然とした態度を

私たちは、日本政府に毅然とした態度を期待していた。
民主党・現政権にそれを期待するほうが、間違っていたというべきかも知れないが。

毅然とした態度とは、日本の領土と、国民の生命・安全・財産を守り抜くという、国家の強い決意を示すものでなければならない。
それには、一定の軍事力を含むところの強制力の行使も辞さない、という覚悟が(当たり前だけれども)必要だ、という当たり前の事実に気がついたというなら、この事件も、意義があったと見るべきかもしれない。

しかし、日本が植民地になってからでは遅すぎる。
取り返しがつかないのだ。

日本が毅然とした態度をとるということは、日本だけでなく、韓国や台湾などの東アジア諸国も日本に期待していたことだと思う。
覇権主義・軍拡路線をひた走る中国の横柄さには、他のアジア諸国も辟易としていることだろう。

安全神話からの脱却

日本人も、もうそろそろ、「空気と水と安全はタダ」(空気と水は、近年必ずしもそうではないかもしれない)、「自由と民主主義と平和はタダ」という迷妄から脱却しなければならないだろう。
これらは、不断の努力なしには、手に入れることも、維持することも困難なものである、という普通の、国際常識に目覚めなければならない。

現実にわが国の平和と安全が脅かされる状況において、かつ日本が直ちに自主防衛することが困難な現状では、どうしてもアメリカとの同盟関係、そしてそれをより強固なものにしてゆくことは不可欠である。
こんなときに、米軍基地は出て行ってほしい、などというのは、自殺行為である。

これから中国船が、大手を振って、大量に、頻繁に尖閣諸島沖に来る可能性は高いだろうから、海上保安庁の巡視艇や海上自衛隊の艦艇を増派し、領海侵犯に対処するとともに、南西諸島には陸上自衛隊を増強する必要があるだろう。

「地域主権」の危険性

また、「地域主権」を声高に叫ぶ菅政権だが、この考え方も注意しなければならない。
こと外交・安全保障に関する判断を、「民意」の名の下に、沖縄県民にゆだねるのは、中央政府としてあまりにも無責任である。
国家の指導者がリーダーシップを失っては、国家は解体してゆくしかない。

片務性の強い日米同盟

さらに、当面は日米同盟を強化することでしのいだとしても、片務性の強い現在の日米安全保障条約の下では、たとえば今回のように、尖閣諸島問題だけで、アメリカの軍事的プレゼンスを期待するのは益々難しくなるだろう。
アメリカの若者は、沖縄の基地に赴任するに際して、日本人のために命を賭けることを宣誓して来るという。
アメリカ兵が日本人のために血を流しても、日本の自衛隊は、アメリカ人のために血を流さない(流せない)では、どうして日本を守ってくれるのか。
これほど虫のいい話はないではないか。

避けられない集団的自衛権、憲法改正論議

この先、少なくとも集団的自衛権の行使、さらに言えば、憲法9条改正についても、どうしても避けて通れない議論になってくるだろう。

「自虐史観」の毒水

それにつけても、この一連の中国の態度、それに対するわが国の対応を見るに、「自虐史観」の流す毒水、害悪が、どれほど大きいことかと改めて感じざるを得ない。

中国においては、反日的教育によって、国内の不平不満の矛先を、日本に向けさせる、というのは国家戦略としてとりうるということは理解できる(そういうやり方は容認はできないが)。

しかし、日本がわざわざ自国を殊更に卑下し、自国民を貶めるような教育・洗脳をする必要がどこにあるのか。
これが、日本人の持つ、(ニセモノの)謙虚さカルチャーと一体となって、自国民の誇りと自信を奪い、自由と自助努力、そして繁栄の精神を損ねていると感じる。

もうそろそろ、この自虐史観からも脱却しなければいけない。

求められる「宗教立国」

日本が軍事力を持つと、必ず軍国主義国家となって、近隣諸国を侵略する、などということは、21年連続して10%以上の軍拡をやり、核ミサイルも何百発も持っており、実際に帝国主義的拡張路線をとっている国に言われるべき筋合いはまったくないのだ。

日本はそんな国ではない。サムライの国であり、正義や礼節を愛する国である。
もともとは仏教や神道、儒教が長く国の背骨となってきた宗教的精神にあふれた国であり、慈悲を具現化する国家である。
これぐらいのことはきっちりと言ってやるべきだ。

そして、日本は、真の意味での世界のリーダー国家となって、世界の平和と繁栄のために、主導的な役割を果たすべきだ。
そのためには、どうしても、宗教的精神が、国家の精神的支柱として必要だ。
これなくしては、どうしても唯物論的な価値観に流され、この世での生存のみを尊しとする思想になってしまう。
己の命を賭してでも守るべき、崇高なものは、やはりある。
これが、人間と動物とをわける、根源的なものだからだ。

「日本よ、世界のリーダーたれ」―。
日本のみが、世界の希望なのだ。