私の政策
08 October

猫の道、猿の道

猫の道
宗教には、「猫の道」(猫の神学または猫型宗教)、「猿の道」(猿の神学または猿型宗教)と言うことばがある。
母猫は、危険が迫ると、わが子を守るためにさっと子猫の首筋をくわえて逃げる。その際、子猫はまったく何もせず、母親に身を任せ、ただ首筋をくわえられているだけである。
猫の道、猫型宗教とは、すべてを神仏の御心に委ねて、努力すらも放棄し、ただひたすら、神仏の救いを求める、というものである。
完全他力型の宗教であり、ごく大雑把に言うと、キリスト教的救済や、仏教における浄土教系統、浄土真宗系統の教えがこれにあたる。

猿の道
一方、母猿は同じように危険が迫ると、やはり子猿を抱えて逃げるわけだが、子猿のほうも、ただ母猿のなすがままになっているわけではない。危険を感じた母猿が近づくと、子猿のほうも母猿の方に走ってゆき、母親のおなかに飛びつく。母親は子猿がしがみついたのを確認し、走って逃げる。
仏、あるいは神と言われる存在は、すべての人類を救いたいと願っているが、小猿のようにしっかりと(この場合小猿にあたるのが人類だが)、母猿たる神仏に、しがみついて落ちないようにするという、救われる側もまた、一定の自助努力を要請されるという考えである。
猿の道、猿型宗教とは、すなわち、自力と他力の両者が真実だとするものである。
前者、猫の道が、「信」即ち信仰のみの宗教であるのに対し、猿の道は、「信」に加え、「行」(修行、努力)を必要とする。
宗教には大きく分けて、この二つのかたちがある。
これ以外に、「行」だけで「信」がないものも、ヨガや禅の流れの中には一部ある。
しかしこれは、無神論・唯物論にすり替わりやすく、宗教としては自殺に向かう方向である。
結局、「天は自ら助くるものを助く」と言われるように、自力と他力の両者を兼ね備えたもの、「信」と「行」の両者を必要とするものが真実である。

政治における猫の道、猿の道
政治のかたちにおいても、「猫の道」「猿の道」という分類は可能だ。
「猫の道」はいわゆる「福祉国家」に近い。ゆりかごから墓場まで、国家がすべての面倒を見てくれるべきだと、いう考え方、人々は手厚く保護され、権利を守られ、保護されるのが当然、と考えるのが猫型政治と言ってもよいだろう。
一方、猿型政治と名づけるものがあるとするならば、国民にも平和や繁栄といった幸福を享受するために、一定以上の自助努力を要請する、というものである。
結論として私は、宗教と同様、政治においても、猿の道が、真実に近いという考えに賛同する。
その努力に応じた結果、報いが返ってくる社会のほうがより公平で幸福なのではないだろうか。
もちろん、まだ自分で努力するに至らない嬰児や、病気や怪我で苦しんでいる人など、自分で母猿にしがみつく力さえないような弱い子猿は、助ける必要がある。
ただ、生まれたばかりの赤ちゃんであっても、お母さんの乳首にむしゃぶりついて、一生懸命おっぱいを吸う。これくらいの自助努力は、人間が地上において生きていく上で必要なものではないだろうか。

努力即幸福
また、努力は、それそのものが、苦役ではなくて、幸福なのだ、という考え方もある。
自助努力が許されているということがどれほどありがたいことか。
他人に依存することでしか自分自身の運命を変えていくことができないとするならば、それは不幸な社会ではないか。
例えば、かの北朝鮮においては、個人がどれだけ努力しようと、企業家精神を発揮して新しい企業を興そうと考えても、現実には不可能だ。
中国においても経済的な面においてはかなり自由化されているが、政治においては、13億を超えるとされる人口のうち、7千万人の共産党に独裁されている。
政治の仕事は、幸福を実現していく、幸福の具体化であるが、それに参画することができない、きわめて統制的な国家体制だ。
このような国家体制の中で生きていかなくてはならない中国人民は、やはり幸福であるとはいえまい。

理想の政治・理想の政府
自分自身の努力によって運命を変えていくことができる。これは大いなる福音である。
私たちが理想とすべき政治・政府のありかたは、自助努力によって道が開けるということを妨げることがないようにすること、努力によって幸福になってゆく権利を守っていくということではないだろうか。
やはり努力によって道を切り開いていける、幸福になっていける、という社会がよい。努力さえできない弱者に対しては、最低限のセイフティネットは必要であるし、努力したけれども、武運つたなく失敗したという方に対しては、再度チャレンジできる敗者復活戦の機会を設けるということが大事である。
努力にかかわらず、結果平等を求める社会であっては、やはり全体が貧しくなるだろう。
「最大多数の最大幸福」とは、国家権力によって幸福を実現しようなどという全体主義的な考え方ではない。むしろその逆である。
個々人が、どちらの方向に向けて努力するのか。自分や家族、ひいては国家と世界の幸福のために努力をする、その努力そのものが貴いことであり、その努力するという行為自体が幸福であるということだ。そうした努力を国民の皆さんにも推奨するということである。
一方、国家としては、努力する自由を守り抜かなければいけない。努力して幸福になってゆく権利をしっかりと守り抜く必要がある。
われわれ人間は、努力して幸福になっていく権利があるのだ。
さらにいえば、努力して幸福になってゆく義務があるのだ。そこまで踏み込んだ社会を実現できればなお理想的な政治だと思う。
不幸になってよい権利など、本当は誰にもないのだ。また他人を不幸にする権利もない。

隼型の政治
さらに付け加えるならば、新しい宗教のかたちとして、隼(はやぶさ)型宗教というものがある。
古来より宗教は、「貧(貧困)・病(病気)・争(人間関係の争いなど)」からの脱却を使命としてきた。つまり、人生の苦難・困難というマイナスからいかに立ち直るか、ということが使命であった。
現代宗教においてももちろん、このような悩める人々を救済する使命はあるが、さらに加えて、この世において、よりよく生きる、積極的で建設的な、発展繁栄する生き方を教えるも現代的宗教のかたちとして要請されている。
このような宗教のかたちを、あの隼が、子供たちへの教育を通して、空の飛び方、獲物の飛び方を一生懸命教え、マンハッタンの摩天楼という現代文明の象徴のようなところでもたくましく生きている姿になぞらえて、「隼型宗教」と呼ぶ。
こう考えると、政治もまた宗教と同じく、幸福の実現という目的を持つ以上、「隼型政治」というものもありえるだろう。
社会全体が貧困な時代ならば、「最小不幸社会の実現」が政治の目的であってもよかったのかもしれないが、これほど高度に発展した社会にあっては、やはり目指すべきは、「最大幸福社会」だろう。
これを称して、「隼型政治」と呼びたい。これについては、稿を改めて考察したい。