私の意見
26 November

宗教と政治について(2)

以前のブログでも少し触れましたが、とても大きなテーマですので、これからも時々随想風に、綴ってみたいと思います。

日本では宗教家の地位は必ずしも高くありません。特に新興宗教は。いかがわしいもの、怪しげなもの、と見るのが一般的でしょう。

しかし、仏教、キリスト教、イスラム教、当たり前の話ですが、いずれも立ち上げの時期には新興宗教でした。

仏教では、当時、仏教以外の教えが「六師外道」と言われていたように、たくさんの教えを説く人がいたようです。

そして、時代の風雪に耐え、インドを超え、国際的に広がった仏教が、世界宗教となりました。

教えに普遍性があったということでしょう。

長い風雪に耐えなければ、本物となかなか認めてもらえないというのも歴史の事実でしょう。

仏教、キリスト教、イスラム教、いずれもその草創期は、既存の宗教によって迫害されました。

そのような初期の事情はさておき、現在ただ今、普遍的とみなされ、信用のある宗教であっても、政治的発言がなかなか自由に許されないようです。

政教分離という考え方が、日本においては、はなはだ誤解されている面があると思われます。

先の衆院選の時にたまに聞いたり読んだりした話ですが、

「幸福実現党の政策は、一番まともだと思う。私は入れないけれど」

「こんな政策が、自民党から出ていれば、私は自民党に入れたんだけど」…

いずれも、「宗教が政治に口出しすべきではない」という考え方が背景にあってのコメントと思われます。

宗教だけが、政治的禁治産者の如く扱われるのはなぜでしょうか?

例えば、弁護士から政治家になる方はたくさんいらっしゃいます。ジャーナリストからなる方もいらっしゃいます。企業経営者からなられる方もいらっしゃいます。

その他、いろんな職業から政治家になられる方はたくさんいらっしゃいます。

宗教家だけが、政治参加の自由を奪われるいわれはないはずです。

新興宗教だから、とレッテルを張る気持ちもわかります。

新興宗教の中には悪いものもたくさんありますから。

しかし、要は中身の問題で、新興宗教だからと言って必ずしもすべてが悪いとは言えないし、古いからと言って必ずしも正しいとは限らないでしょう。

例えば、先の小沢氏の発言にあったように、「死ねばみんな仏になる」ということは、わりと一般的に伝統仏教界で使われますが、もともとの仏教の教えから見たら、どう見ても間違いです。修行そのものの意味がなくなってしまいますから(伝統仏教の教えすべてを否定するものではありません)。

歴史のある時点で誤解されてそのまま継承されていったとみるべきでしょう。

どうか、幸福実現党の母体となっている幸福の科学が、いったいどういう教えに基づいて、人々が学び、活動しているのか、白紙の目で見ていただきたいとお願いしておきたいと思います。

閑話休題、日本では、宗教は、どちらかというと日かげ者のように扱われていますが、これは、世界の常識からみて、正しいあり方でしょうか?

よく言われることですが、アメリカ大統領は就任式の時に、聖書に手をおいて宣誓します。

オバマ大統領は、リンカンが使った聖書に手をおいて宣誓したと伝えられました。

例えば、J.F.ケネディの大統領就任演説の中にも、「全能の神のみ前に誓った」とか「われらは神の御めぐみと救いとを求めはするが」など、宗教的なフレーズがよくつかわれています。

そもそも、アメリカはピューリタンが作った国であり、宗教と一体不可分の国であると言えると思います。

重要なテーマですので、今後も折に触れ、書き綴ってまいりたいと思います。今日はこの辺で。