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15 November

龍馬を偲ぶ

今日は、維新の志士、坂本龍馬の生まれた日であり、帰天した日でもある(生まれた日については異説あり)。 

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、何度読んだだろう。  

 竜馬は、外科医のような冷静さで自分の頭をおさえ、そこから流れる体液を掌につけてながめている。白い脳漿がまじっていた。
 竜馬は突如、中岡をみて笑った。澄んだ、太虚のようにあかるい微笑が、中岡の網膜にひろがった。
 「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」
 それが、竜馬の最後のことばになった。言いおわると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駆けのぼった。
 天に意思がある。
 としか、この若者の場合、おもえない。
 天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。
 この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
 しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。(『竜馬がゆく』(八)文春文庫版)

何度も繰り返し読み、そのたびに涙を流した最後の場面である。

いま、この国の歴史始まって以来の混乱の時代といえる。
この混乱を収拾するために、天はだれを地上に下しているのだろう。
それは、この国と、世界の混乱の大きさを思うとき、ただ一人とは思われない。
そのような使命を果たすために、生まれてきた人たちが大勢いるはずだ。
司馬氏によれば、明治維新は、3千人ぐらいの人で起こしたという。
名前が残っていない、草莽の志士たちも含めて3千人。
今の人口比なら、1万人ぐらいだろうか。
名を遺した人はごく僅か。命も名もいらぬ、無私なる念いで、日本の夜明けのために、戦った若者が3千人もいたのだ。

日本人であって、日本が国防を強化することに対してヒステリックに反対を唱え、頑なに憲法9条を護ろうとする人たちは、この世の生命をかけても、守り抜かなければならないものがあるということが理解できない、結局のところ、唯物論者なのだろう。

この世の生存のみを願い、戦うことを拒絶すれば、全体主義国家の隷属下におかれて生きるしかなくなるかもしれない。
たとえ奴隷となっても戦争は嫌だというような、卑怯な国民にはなりたくない。

「幸福維新」の志士たちよ、共に目覚めよう。
新しい日本の夜明けのために、共に戦おう。

私が坂本竜馬のような活躍が出来るかというと、それはおそらく妄想に過ぎないだろうが、
少なくともその気概は学びたい。
心はいつまでも、青臭く、理想を追究し続けたい。

日本と、日本の国民を護るために、この国の未来を拓くために、微力なりといえども、この命をを燃焼しつくしたい。
龍馬の命日に、そう誓わせていただきます。