歴史は、“英雄”によって創られ、紡がれる。
近年、坂本龍馬や吉田松陰の名を、教科書から消そうとする動きが見られるようです。
吉田松陰なんて若くして処刑され、大した業績なんでない、坂本龍馬なんて、今で言えばブローカーのようなもんだろう、ぐらいの認識でしょうか。
しかし、間違いなく、歴史は英雄によって創られたのであり、創られ続けています。
たまたま偶然、その人がその時にそこにいたから、そういう(革命が起きるという)結果になった、というような考えは真実ではないと思うのです。
私たちは、そこに「天意」というものを見いだすことができます。
イエス・キリストが磔刑に処せられた当時も、現代の大を成したキリスト教から見れば、教祖がわずか3年の伝道期間を経て、刑死してしまったという、想像もつかないほどの弱小新興教団であったでしょう。
この世の業績から見れば、取るに足らないほどのものであっても、その後、時空を超えて、大きな影響を与える人がいる、ということが理解できないようです。
明治維新も、「殺されて溝に転がされても構わない」と思った志士たち、3千人ぐらいによってなされたと言われています(司馬遼太郎説)。
もちろん、後世に名を遺した人は数えるほとしかありません。ほとんどは無名のままに死んでいきました。しかし、英雄であったことは間違いありません。
我が国も、そして世界も、大変革の時代に入っております。
これからの時代を創るために、無名の英雄たちが、地から湧いて出るように続々と現れてくることでしょう。
仏教的には、“地涌の菩薩”と言います。
私もその一人でありたいと願うものです。
天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。
しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。
(司馬遼太郎『竜馬がゆく』第8巻より)
何度読んでも、ぐっとくる文章です。
7日、朝は東長江交差点にて辻立ち、午後から金沢市内を一回り、ふれあい活動。夕方は、神谷内交差点にて辻立ちをさせていただきました。
昨夕のはげしい雨が嘘のような、今日も爽やかな五月晴れでした。