自由・民主・信仰について
幸福実現党は、自由・民主・信仰の3つを重要な基本原則としています。
自由と民主については、反対する人はそんなにいないと思いますが、3つ目の「信仰」に関しては、「なぜ信仰なの?」と思われる方は多いかもしれませんね。
でも、それ自体が異常なのかも知れません。
日本だけでなく、多くの民主主義国家においては、「信教の自由」というものがはっきりと認められています。
そして、「信教の自由」には、内面の自由だけでなく、外に向かってそれを表明する「信仰告白の自由」も付随します。
信仰告白が許されず、内心でだけの信じる自由だったら、わざわざ保障するまでもないことだからです。
それだけでなく、「布教の自由」も伴います。自らが良いものだ、正しい教えだと信じるならば、当然、それを他の人々にも伝えるべきだと考えるのが信仰者であり、自分一人のものとしておこうと考えるならば、それは極めて利己的な考えであり、神仏は喜ばれないであろうと考えられるからです。宗教法人法においても、宗教団体とは、その教義をひろめることを主たる目的とする団体とされています。
神仏を信じ、信じていることを表明し、その教えを他の人に伝えることは、取り立てて変わったことではなく、ごく自然なことです。これは他のキリスト教国、イスラム教国、インドのような多神教の国においても、事情は同じでしょう。
ところが、そうではない異常な国があります。
いうまでもなく、我が国のすぐ隣りにある、唯物論に基づく共産主義を国是としている国ですね。
ここでいかなる人権弾圧が行われているか、あまり報道もなされていませんが、まさしくこの世の地獄が展開しているわけです。
例えばウイグル自治区と呼ばれているところは、もともと東トルキスタンといい、イスラム教の国であったのですが、そこでは多数のウイグル民族が「再教育キャンプ」という名の収容所に入れられ、迫害されているのであります。
彼らは、自分たちの国が民主主義国家のように喧伝し、憲法上、信教の自由も認めているように言います。
しかし、世界中の誰もがかの国が民主主義国家だなどと本気で信じている人はいないでしょう。
そして信教の自由に関しても、政府が認めた、カトリックなどの伝統的な宗教5つだけで、実態は法○功などの新興宗教に対しては公然と、宗教弾圧が行われているのであります。最近では、政府がカトリックの司教の任命権も握ったようです。政府の意向に沿わない司教は任命されないわけですから、これではもはや、信教の自由は死んだと言わざるを得ません。「逆カノッサの屈辱」とでもいうべき、信仰の、世俗権力に対する敗北と言えましょう。
ところが我が日本においても、信仰を持っているといえば白い目で見られたり、布教することを妨げられたりすることがままあります。
「仏教などの伝統宗教ならば信用できるが、新興宗教はみんなオ○ムと同じで、怪しい」というならば、某唯物論国家と同じ思考と言わざるを得ないでしょう。
ユダヤの地でイエスが教えを説き始めたころのキリスト教も新興宗教だったでしょうし、宗教大国インドで釈尊が法を説き始められた時も、新興宗教の1つでした。
日本では、聖徳太子の時代に取り入れた仏教も、鎌倉期に興った浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗などの仏教諸宗派もすべて新興宗教だったのです。
そうした新しい宗教を取り入れる寛容さが、文明・文化の興隆を生んだと言ってよいでしょう。
一方、唯物論がもたらす果実はいかなるものでしょうか。
唯物論から共産主義が生まれ、共産主義から全体主義の悪魔が生まれ、全体主義の世界からは個人の生命や言論の自由が圧殺され、逃げ場のない地獄が果てしなく広がっていきます。
もし、日本でそういう唯物論的風潮が広がるならば、某国と同じような地獄世界が展開しないとも限りません。いや、すでにそういう兆しはあるようです。
だからこそ、「日本を、絶対に唯物論国家、共産主義国家にはしない」という堅く強い意志で、「自由」「民主」そして、「信仰」という3つの重要な原則を護り抜き、これに反する勢力と戦ってまいります。
今年は、件の共産主義全体主義国家が、東アジアの海の覇権を巡っての動きが活発化すると予見されます。
そうした状況を踏まえると、今年は決戦の年となりそうです。
幸福実現党立党10年の節目の年に、この決戦に勝利してまいりたいと思います。