宗教立国・日本
「霊言は、科学的合理性が立証できない」など、不見識極まりない。
「天なる父」の声を聴き、語ったイエスの教えに基づくキリスト教系の大学も、「神々との対話」「悪魔との対話」をなした釈尊の教えに基づく仏教系大学も、学問として認められず、大学も不可なのか。
たかだか100年余りの自然科学的な手法でもって、現文明に限ってみても数千年の昔から滔々と流れ来たる宗教的真理を、証明できないから正当ではない、などというのは、30センチ物差しで太平洋の広さを測ろうとして、「この物差しで測れないから、太平洋はない」と言っているに等しい。
また、献本を「認可の強要を意図する」とは、全く不当な「信教の自由」の侵害だ。
「信教の自由」とは、それが認められてはいても、それを表明することができず、ただ心の中で信じているだけならば、その自由もわざわざ保証するまでもないだろう。
したがって、「信教の自由」は必ず「信仰告白の自由」をともない、さらに、自らが素晴らしい、尊いと思う教えを、他の人々にも伝え、伝道するという「伝道の自由」 をもともなうものである。
否、信仰告白そのものが、伝道行為であると言ってよい。
経験したことのある人ならばわかるが、「信仰告白」という、自らの信仰を表明する、というたったそれだけのことですら、現代日本という唯物論的な環境の中では、大変勇気のいることである。
ましてや、献本という、書籍(経典)を贈る伝道行為は、そこに説かれている教えと、その教えを奉じている自分自身の人格が対比されるのである。
そして、相手によっては激しい批判の言葉が返ってくることもある。
その後の、ご近所や、学校や、職場などでの人間関係にまで大きな影響を及ぼしてくることがある。
(平たく言えば、お互いに気まずくなったり、白い目で見られたり、無視されたり、いじめられたり、など様々なことが起こりうる)
どれだけの緊張感と、不安感と、恐怖に近い感情とがないまぜになった状態であるか、想像がつくだろうか。
伝道とは、それを乗り越えてなされる、全人格を賭けた真剣勝負である。
自分自身が非難され否定されるだけならまだしも、自分が最も尊敬し、帰依し、拠り所としている方が 、またその方の教えが、批判されたり非難されたりすることは、自らの身が切り刻まれる以上の苦しみ・悲しみ・悔しさを味わうこともある。
世が世なら、迫害され、殺されることもあるのが伝道だ。
これほどのプレッシャーに耐えながら、伝道し、献本することが、どうして「強要」などになりえようか?
そのような、ある意味で命がけの真摯な行為であるところの伝道(献本)を、「不正行為」などと言う。
これこそが、伝道権を否定する不当な圧迫であり、「信教の自由」の侵害に他ならない。
それでも、神の栄光を賭けて、地球の未来を賭けて、人類の幸福を願って、 伝道するのである。
それほど、伝道とは尊い行為なのだ。
「伝道は絶対の善」とも言われるのは、そのためだ。
神仏は、人々の幸福を願ってやまない存在である。
民主主義とは、人々が神仏に成り代わる、ということではないだろう。
通常、神仏の心がわからぬから、人々が寄り合って英知を集め、より神仏に近い考えを選び取ろうと努力することではないのか。
そこに、真の民主主義が生まれてくるのではないか。
今回の幸福の科学大学の設置申請「不認可」をめぐる一連の問題で明らかになりつつあることは、政界も、教育界も、腐臭を放っている、ということである。
浅学菲才を顧みず、 政界浄化と、教育界浄化にこの身を捧ぐことを、改めて誓った次第です。
神仏の心から遠く離れた国民とその国に、未来があろうはずもない。
「宗教立国・日本」の実現を高らかに掲げ 、努力精進してまいります。