神意はどこにあるか
集団的自衛権の行使容認は、今までの政府見解を変えることになるので、憲法を改正することなく、時の政権の都合で恣意的に変えられることになる。それは、民主主義に反する、あるいは立憲主義に反するからよろしくない、という意見があります。
一方で、憲法改正は王道かも知れないが、それには長い道のりが必要で、いまは急を要する国防の危機的状況であるから、国民の生命・財産・安全を守るためには、取り急ぎ、解釈を変更してでも集団的自衛権は行使できるようにした方が良い、という意見があります。
私はもちろん後者の意見です。手続きというか、マナーの問題に終始して、本当に守るべきものが守れなかったら本末転倒ではないか、と思ってしまうのです。
そもそも、憲法を守るために国民がいるのではなく、国民を守るためにこそ憲法があるのではないですか。
この議論とは別に、宗教的勢力は宗派を問わず、概ね「反集団的自衛権」で一致団結しているようです。
この点、反原発運動と似ていなくもありません。
「平和勢力」とはただひたすら戦争を欲しない勢力のことなのでしょうか。
戦争さえ起きなければすべてよし、とするならば、「奴隷の平和」を甘受しなければならなくなるでしょう。
無反省で利己的で、一方的に自らの主張を押しつけてくる無法者の帝国主義的侵略に屈して、それでも戦争は悪だから戦いません、というのは、卑怯者ではないですか。
日本だけが我慢すれば済む、という話に止まらず、フィリピンもベトナムも、その他のアジア諸国も、無法な侵略主義に困っているのであるならば、共同して無法者に立ち向かわねばなりません。
正義の実現こそ、神仏が人間に求めることではないでしょうか。
「悪を押しとどめ、善を推し進める」ことは、仏教の根本でもあります。
「戦争に正義の戦いなどなく、すべて悪である」というのは間違いです。
「正義の戦いもあれば、悪なる戦いもある」というのが真理です。
三千年に渡り、八百万の神々が守り、「仏陀再誕の地」である、神国・仏国土・日本 こそ、アジアと世界の平和を守り、繁栄に導く盟主であるべきであると考えます。
神意・仏意は、「積極的平和主義」にあると言うべきでしょう。
ブログは久しぶりになってしまいましたが、辻立ちの動画はしばしばアップしておりました。
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