白紙の目で
2月27日、石川県知事選が告示となりました。
私は不覚にも、その日、収支報告書を選管に提出しにいく段になって、そのことを思い出したのでした。
ああ、何という無関心!
私は、多選が悪いとステレオタイプには思いません。
何度も選ばれる、ということは徳望や能力があることの証明のひとつではあると思いますし、
どこかの国の首相のように1年経つか経たないかのうちに交代するということは(首相が務まるような人材が掃いて捨てるほどいる、ととれなくはないし、「高速回転民主主義」という、時代の最先端を走っていると善意に解釈できなくもないとは思いますが)、基本的には諸外国からは不安定でなかなか信頼が置けないように見られるところはあると思います。
政権の安定という意味では利益があります。
しかし、新しい人や新しい政党が出にくい、あるいは不利な状況になる、というのは宜しくないでしょう。
新人は新人なるが故にそれまでの実績はなく、それゆえ通常は放っておいても現職が有利になるのですから、公平性を担保することはかなり難しいことではありますが、
複数の人々が、チャンスは平等に与えられ、行為は公平に扱われ、お互いに切磋琢磨できることが望ましいと思います。
同様に、県外出身者だから駄目とも、いいとも思いません。
他県出身だから石川を愛していないとはいえないし、逆に石川県にずっといる人より、石川のことが(長所も短所も)よく見えたりするということもあり得るのではないでしょうか。
もちろん、石川出身で、石川をすごく愛しており、石川の発展のためにはその命を惜しまない、という人もいるでしょう。
だから一概にはいえません。
要は、どれだけ県民を幸福にできたか、「最大多数の最大幸福」をどこまで実現できたかで測られるべきでしょう。
政治は結果責任とよくいわれます。
そして、その責任は、選んだ側にも返ってきます。
個々の選択は違う(私は違う党を選んだ)と言うかも知れませんが、多数の選択の結果の、幸福も不幸も、選んだ側が享受することのなるのです。
民主主義とは即ち、民が責任を負う政治システムなのだなあ、とつくづく思います。
そして「結果責任」という以上、結果が出てみなければ分からない、という面があります。
これが民主主義のもどかしいところでもあります。
5年前、「政権交代」という国民的熱狂のなかで、民主党政権が誕生しました。
その後、日本国民は、悪夢のような4年間を経験しました。
これが民主主義の恐ろしいところでもあります。
思えば、ナチスを選んだ、かつてのドイツ国民もそうでした。
ドイツ国民は皆愚かだからナチスを選んだのかと言えば、決してそうではありますまい。
一言で「衆愚制」とは片付けられないものがあると思います。
どうしたらこうした「悪夢」が防げるでしょうか?
まずは「無関心」であることをやめることではないでしょうか。
そして、「◯◯だから当然◯◯だ」という思い込みや偏見を捨てて、白紙の目で見ることが大切ではないでしょうか?
さらには、政策の是非もさることながら、それ以前に正邪善悪を明らかにする目を養うことが大事なのではないでしょうか?
日本人は概して、正邪を分つ、正義の判断を下す、価値判断をする、ということが苦手なようです。
が、民主主義が健全に機能するためには、ここは避けて通れないところではないでしょうか。
反省と自戒を込めて。