裁判員制度は「合憲」 最高裁大法廷が初判断
裁判員制度が憲法に反するかどうかが争われた覚せい剤取締法違反事件の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)は16日、「憲法上、国民の司法参加が禁じられていると解すべき理由はない」として、合憲との初判断を示した。
制度の合憲性に関する最高裁の判断は2009年5月の制度開始から約2年半で初めて。憲法の条文に直接の規定がない制度の法的な位置付けを明確にした。最高裁の裁判官15人全員一致の結論。個別意見を述べた裁判官はいなかった。
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「国民が、当事者意識を持つため」という趣旨も理解できる。
「法曹関係者が、国民目線で仕事をするようになる」ということも、わかる。
「憲法上、国民の司法参加が禁じられていると解すべき理由はない」というのもその通りだろう。
それでも、いくつか疑問が生ずる。
裁判員に選ばれた場合の、時間的拘束。それに伴う経済的損失など、様々な損失もあるだろう。
アメリカの陪審員制度と違い、有罪か無罪かの判断だけでなく、量刑まで判断しなければらなない点。たとえば「死刑か否か」の判決が、自分の判断に影響されるなどというのは、普通に考えれば、大変な精神的プレッシャーだろう。
「裁判官」というのは、大変な専門性を要求される職業だと思っていたし、今も思っている。
それを、「意見を聞く」などというレベルではなく、半数とは言え、「素人」ともいえる国民の手に、量刑まで委ねるとなると、本来要求される専門性は、どうなっているのだろう?給料は半分でいいんではないか?と言いたくなる。
たとえば、お医者さんに、国民目線の仕事をしてもらうために、診察には半数の一般人に参加してもらう。それも、病気か健康かの判断だけでなく、病気の場合の処方箋まで意見を言ってもらう、となったらどうだろう。
もちろん、医学と裁判の世界は違う。
冒頭に挙げた主旨は、重要だと思う。
私は、裁判員制度そのものに反対するわけではない。
何かと「お上頼み」の日本人が、「正義とは何か」を決めてもらうことまで「お上」に委ね続けるのではなく、「何が正しいか」「何が正義か」を探究し、議論し、判断することは、自由と民主主義をより高次なレベルに押し上げるためにはよいことかとも思う。
ただ、現行の制度のままでは、裁判員に選ばれる国民の負担と、専門家たるべき裁判官の責任放棄の側面が大きいように思われる点、改善が必要だろう。