リーダーについて考える
優れたリーダーは、自己を客観視することができる。
自分に何ができて、何ができないかを知っている。
何をなすべきであり、何をなすべきでないかを知っている。
おそらくそれは、リーダーという立場についてから身に着けた能力ではなく、
リーダーになる以前から、リーダーになるべく自らを磨いてきた結果獲得した能力だと言えるだろう。
「リーダーとは、もともといたものではない。
作られてなったものでもない。
自らをリーダーとして訓練したものが、リーダーとなるのだ」
というような意味のことを、故ピーター・F・ドラッカー博士は言っていたように思うが、
この言葉に、どれだけ勇気づけられたことだろう。
リーダーの資質とは何か、を考える時に、このドラッカー博士の言葉は深い。
自らリーダーを志し、自らをリーダーとして磨いていくことによって、
誰もがリーダーになれる可能性が開かれているのだ。
また、これもドラッカーに依れば、リーダーには、高潔さ(integrity)、誠実さ(sincerity)が要請される。
これらのことは、国家や会社党の組織における、自然人としてのリーダーだけでなく、
おそらく、世界における「国家」という法人においても妥当するだろう。
つまり、日本が世界のリーダー国家となるためには、
自らをリーダー、あるいはリーダー to be として自覚し、自らの意志で自らを磨いていく必要がある。
そして、国際社会において、「何ができるか」「何をなすべきか」を知らなければならない。
少なくともリーダーは、自分のことだけ考えていればよいというものではない。
サラリーマンであれば、自分の給料分だけ働きます、ということでは、平社員以上にはなれないのは当然のことであり、
この厳しい時世では、即リストラ対象であろう。
日本もまた、自分の置かれている客観情勢を見る時、やはり大国としての責務を果たさなければならない。
日本は「大国」であるということは、どんなに否定してみても、客観的事実として否定できない。
GDPが中国に抜かれたと言っても、人口は中国が10倍ある。
日本の1人当たりGDPは中国の10倍であり、単純に言えば、日本の生産性は10倍あるということだ。
経済力はもちろん、国力のすべてではないが、重要な指標であろう。
日本がもし、今まで通り平和で、少し貧しくなるかもしれないが、まあまあ現状維持をキープできればいいな、と思っているならば、残念ながら、現状維持すらできない。
これだけ変化の激しい時代にあっては、常に発展を目指し、創意工夫し、イノベーションし続けなければ、時代に取り残され、衰退してゆくしかない。
これは、いい悪いの問題ではなく、事実であり、現実なのだ。
「昔はよかった」と言っても、一部の人を除けば、誰も、江戸時代や、平安時代や、縄文時代に戻りたいとは思わないだろう。
「それは極論だ。『3丁目の夕日』ぐらいの時代が良いと言っているのだ」という人もいるかもしれないが、残念ながら、そんな都合の良いところでは下げ止まらないだろう。
キリスト・ユダヤ合体文明と言ってよい米欧と、イスラム教圏を中心としたアジア・アフリカ諸国との仲立ちをできる可能性のある国と言ったら、日本しかあるまい。
日本が衰退してゆくことは、世界に対して罪悪である、とさえ言ってよい。
経済的な側面のみならず、安全保障・軍事的な側面でも、日本の果たすべき役割は大きい。
アメリカ軍の世界におけるプレゼンスは、間違いなく低下していくだろう。
方や全体主義大国・中国の凄まじい軍事的台頭。
軍事に対しては、日本国内に強力なアレルギーが存在するが、日本はもとより、アジア・アフリカにおける中国の軍事的脅威をけん制するには、日本も軍事力を強化せざるを得ないだろう。
それは、戦争をするためではなく、戦争を抑止するためであることを、われわれ日本国民は強く認識しなければならない。
そして、国家における高潔さ(integrity)、誠実さ(sincerity)であるが、これには当然(世界的には当然。唯物論国家・日本においては当然と思われないかもしれないが)、宗教的バックボーンがどうしても必要である。
神仏を否定し、人生を、この世限りと見る思想からは、根本的に、どうしても高潔さ、誠実さという理念は生まれてこない。
かつては日本神道、あるいは武士道がその役割を果たしていた。
いまもその意義や価値を否定するものではないが、それだけでは世界を救うだけの崇高な理想のバックボーンとしては足りざるものがあると言わざるを得ない。
かつて聖徳太子の時代に、日本神道と融合した形で「仏教立国」を成し遂げ、隋との対等外交をやり、日本を当時の一流国に押し上げたように、新しい宗教理念がどうしても必要である。
当時もちろん仏教は世界宗教であったが、現代では、仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教・日本神道・ヒンズー教など、世界の主要な宗教を統合する世界宗教の出現が要請される。
私たちが「宗教立国」を目指すゆえんである。
これは、伝統的な仏教、神道、その他を否定するものではなく、むしろその逆に、様々な宗教が切磋琢磨することによって、百花繚乱、民主主義的繁栄を願っているのだ。
「民主主義が繁栄する時代は、宗教が繁栄する時代でもある」。
そして、幸福の科学は、その任に堪えうる宗教として成長したいと願っている。
つまり、世界の宗教界のリーダーとして、自らを磨いていこうと決意しているということだ。