泥中の花
石川県羽咋市にある、幸福の科学北陸正心館の玄関先には、大きな鉢に蓮が植わっています。
その蓮が、ようやく花開きました。
えもいわれぬ美しい花弁を見ていると、とてもこの世のものとは思われません。
一瞬、霊天上界にいるかのような錯覚にとらわれましたが、わたしたちが生きている世界は、紛れもない、この世の現実社会。
幸福の科学グループ総裁・幸福実現党名誉総裁、大川隆法先生の著書『信仰のすすめ』には、次のように説かれています。
「この世というものは、なかなか、人々の思うようにならないものですし、善を目指しているものであっても、結果的に、全体をまとめることはできないこともあります。
戦争をなくすために、選挙という制度も編み出されましたが、選挙で決められないものも、どうしても出てきます。選挙や、会議による合議などでは決められないものが出てきて、どうしても衝突は起きてくることがあります。それもまた世の常ではあるでしょう。
このように、この世のなかを見渡してみると、不幸の種はあちこちにたくさんあるので、『これを取り除かないかぎり、幸福になれない』という考え方をし、不幸の種を完全に取り除いて極楽浄土の姿をこの世に下ろそうとしても、それは極めて極めて難しいことです。
しかしながら、『この世という世界は、そういうものである。この世には、闘争や破壊、憎しみ、嫉妬、恨み、怒り、狂気の世界がたくさんある。また、この世は弱肉強食の世界でもある。この世は、生きていくのがなかなか難しい世界なのだ』ということを認めつつも、それはそれとして、逆に、そのなかで、この世に自分たちが生まれた意義、生きている意味を見いだすことが、非常に大事なことなのです。
仏法では、これを『泥中の蓮華の花』にたとえています。
蓮華の花が咲いている沼や池を見たことのある人も多いと思いますが、そこは、どこも泥沼や泥池です。咲いている蓮の茎の下にあるのは、白い砂利を敷き詰めてある、澄みきった、きれいな池などではありません。下は泥です。泥んこです。この泥は、どう扱っても、誰もが『汚い』と言います。不潔で臭いものです。
こんななかからスッと茎を伸ばして水面に咲いた蓮の花には、白い花や赤い花など、いろいろな種類がありますが、この一輪咲いた花を見れば、まるで天国か極楽浄土のようにも見えます。そんな花が咲きます。
昔から、蓮の花は、そういう泥沼や、物がたくさん捨てられる、ごみためのような所などに咲くのですが、そんな汚い所から清らかな花が咲いてくるということに仏教者は憧れて生きたのです。」
(大川隆法『信仰のすすめ』第1章 泥中の花 より)
泥沼のなかにあっても、蓮の花のように、美しい花を咲かせて生きるというのは、人生の理想の一つでありましょう。
しかし、泥沼のような現実社会を、泥沼のままでよしとする言い訳に使ってはならないと思います。
泥沼のような現実社会を、少しでもきれいな池に変えていこうと努力することが、その人にとっての、一輪の蓮の花を咲かせる行為となっている、そういう役割、使命を帯びた人々もいるはずです。
心の世界の平和・幸福を実現しようと努力することと、現実社会を少しでも極楽浄土に近づけていこうと努力すること、前者は宗教的活動の本質であり、後者を政治活動の本質とするならば、宗教と政治とが共に手を携えて、努力していくことで、最高の幸福社会の実現へと近づいていくのではないかと思います。