信仰の優位
明日からいよいよ、参院選の公示です。
幸福実現党は、昨年の衆院選に続き、再び、国政選にチャレンジします。
今回、都道府県選挙区からは19名、全国比例区は5名、立候補を予定している。
相変わらず、マスメディアは政党要件を満たしていないことを言い訳に、公平に扱ってくれないようですが、同じく政党要件を満たしていないはずの日本創新党はなぜか政党として扱ってます。
おそらくは、宗教政党であるということで、一定のバイアスがかかっていると思われます。
宗教政党であるということ、あるいは、私たちがはっきりと、信仰心をもっているということが、それほど奇異に見えますか?
人間と動物とを分ける、最大のものは、信仰心のあるなしだと思います。
宗教を信じていること、あるいは、信仰心があるということを、堂々と言う人が変わって見える社会というのは、どこかが病んでいる社会であると言わざるを得ないのではないでしょうか。
いったい、唯物論・無神論が、どれだけ人々に幸福をもたらすというのでしょうか。
神仏を否定し、あの世を否定するということは、この世の生存のみを、最高のものとするものであり、そのような考え方からは、世のため人のために命を投げ出す人が存在するということが信じられないでしょうし、結局、自分の命がいちばん大事、という考え方になってしまいます。
もちろん、命を大切にすることに異存はありません。
神仏から頂いた命を大切にし、完全燃焼させてこそ、この世に生まれてきた甲斐があるというものです。
ただそれは、単にこの世に生きる時間の長さのみで測られるものではありません。
左翼的な思想、左翼的な教育においては、他の人のために、あるいは目に見えない価値―愛とか、正義とか―のために一命を投げ出す生き方がすべて否定されていきます。
聖なるもの、偉大なるもの、英雄的な生き方が、否定されていきます。
「聖徳太子」を、わざわざ「厩戸の皇子」と書きかえるようなことがなされます。
間違った解釈による「政教分離」などという、水平的な技術論に惑わされてはいけないと思います。
最も大切なことは、諸々の自由は、「信教の自由」から始まったということです。
「信教の自由」という内面の自由は、外に対して表明して初めて、意味をなすものです。
そこで、「信仰告白の自由」というものが認められるようになった。
その「信仰告白の自由」がもととなって、
「言論、表現、出版の自由」といった諸自由が確立されていきました。
すべての自由のもとは、「信教の自由」にある、ということを、言っておきたいと思います。
さらに、宗教は、唯物論・無神論はもとより、ナチズム、全体主義から人々を護る砦でありました。
そしてこれからも、全体主義、国家社会主義に対する砦、防波堤になるだろうということも言っておきたいと思います。
「信仰心を肯定する民主主義は、良い民主主義であり、信仰心を否定する民主主義は悪い民主主義である」ということを、明言しておきたいと思います。