民主主義と国家
こんにちは。みやもとさとしです。
タイトルは、すごく大きなテーマですが。
徒然なるままに、感じたことを、綴ってみたいと思います。
「国家があなた方のために何をしてくれるかを問うなかれ。あなた方が国家のために何ができるかを問いたまえ」。
J.F.ケネディのこの言葉は、民主主義と国家の関係を端的に表しているように感じます。
民主主義の国(日本はもちろん)においては、国民が主権者です。
主権者である国民は、主体的に国家をつくっていくことができるし、そうあるべきである。
そういう権利を有しているし、その義務を負っている。
「永住外国人への地方参政権の付与」という問題は、
この、「主権が国民にある」という民主主義の前提を崩してしまいます。
日本の主権が、日本国民だけでなく、他の国の国籍を有する人(日本の国籍を有しない人)にも委ねようとする考えであり、
したがって、主権を半ば放棄する考えであり、
日本が主権国家であることを放棄する考えであると思います。
「税金を納めているのだから」という人もいらっしゃるかもしれませんが、
税金は参政権を得るための対価ではなく、行政サービスに対する対価だと思います。
日本で苦労している永住外国人の方が可哀そうだから、という意見もあるかもしれません。
もしも、不当に差別されたり、迫害されたりしている(永住)外国人の方がいらっしゃるならば、それは意見を言える機会を設けるべきだとは思いますが、それが参政権である必要はないと思います。
また、道州制も含めた地方分権論も盛んですが、
「主権が国民にある」ということを、さらに分割することになりはしないでしょうか。
つまり、「主権は道州民にある」「主権は県民にある」、
これは、日本という国が小国に分裂することを意味するのではないでしょうか。
この表現が極端だとするならば、150年前の幕藩体制に戻そうということになりはしないでしょうか。
そしてこれは、日本の国力を弱くすることだと思うのです。
少なくとも、国防は弱体化します。
明治維新は、幕藩体制下では、列強による植民地化を防げないということで倒幕をし、
中央集権の統一国家を作ったのではなかったでしょうか。
いまでも、名護市長が、「普天間基地の辺野古への移設に反対する」、といったら
政府も、そう簡単に辺野古移設を決断できなくなっています。
(もちろん連立与党の社民党の反対もありますが)
地方分権が強化されれれば、こうしたことがもっと頻繁に、もっと強力に、起こりうるということになるのではないでしょうか。
中央集権、富国強兵というと、悪いイメージで捉えられがちですが、
明治維新以降、日本が目指してきたこの方向性自体は正しかったと思います。
もちろん、私は、地方が、中央にいちいちお伺いを立てなくとも、
現場で判断できることはどんどんやるべきだし、
そうした権限委譲という意味での分権は、行政スピードを上げ、国民によりよいサービスを提供できるという意味で、
奨励されるべきだと思います。
しかし、国家への責務は、やはり忘れてはならないと考えます。
結局、道州制というのは、
「平成の大合併」の都道府県版をやって、巨大な県を作ることになるとか、
中二階の役所を作って、役人も中央政府から天下ってきて増えるとかして、
行政速度がさらに遅くなることになるのではないでしょうか。
何より、前述のとおり、国防、安全保障の問題が一番心配になります。
いま、70億近くまで膨らんだ地球人類のうち、10億人の人々が飢えているといわれます。
さらに人口は、100億に向かおうとしています。
このまま、世界経済が縮小していくならば、
世界を、飢えと貧困、そして紛争が覆うことになります。
したがって、それを防ぐためには、食糧増産を含めた殖産興業、及び平和実現への努力が必要になります。
しかしながら、世界を同時に豊かにすることは不可能といってよいでしょう。
したがって、かつてのアメリカがそうであったように、
どこかがリーダーシップをとって繁栄し、その富の力で世界を牽引することが必要であると思います。
そのリーダーとなるべき国こそ、日本であると考えます。
もし、地球人類が持つべき、普遍的な価値観が、全体主義などではなく民主主義であるとするならば
(私は強くそう信じるものでありますが)、
理想的な民主主義による理想的な繁栄した国家の姿をこそ、世界に示す必要があると考えます。
その繁栄する国家モデルを提示することで、世界がそれを真似、それに学び、世界を繁栄と平和に導いていく、
それこそが、これからの日本の夢、ジャパニーズ・ドリームではないでしょうか。
理想的な国家のあるべき姿を、議論し、かたちづくっていきたいと考えます。