宗教と政治について(3)
こんにちは!みやもとさとしです。
「宗教と政治」をテーマに、随想風に綴っていきたいと思います。
人間と動物とを分けるもの、それは信仰心があるかないかということだと思う。
信仰心という言葉が抵抗があるとするならば(それ自体悲しいことだが)、目に見えないものを信じることができるかどうかだと言い換えてもよいだろう。
たとえば、「自由」という概念。自由そのものは目に見ることができないし、さわることもできない。自由が具体的に現れた時にこうなる(たとえば表現の自由としてこういうことが認められる、というふうに)、というものはあるが。 愛についても同じことが言える。 「友愛」という言葉が、薄っぺらな意味に使われているような気がして、「愛」という言葉を使うのも最近抵抗があるのだが(その意味で、迷惑している)、どんな宗教でも(邪教でない限り)、説かれている普遍的な真理である(邪教であっても愛を説いているところはあるが)。 愛そのものは形がない。目に見ることはできない。
しかし、愛は存在する。そのことを、ほとんどすべての人は受け入れることができるだろう。
このように、目に見えないものを信じることができるかどうかが、動物と人間とを分ける、決定的なものであると考える。
「動物だって目に見えないものを信じてるかも知れないじゃないか」という方がいるかも知れない。そう、その通りだ。だけどそれはわからない。なぜなら、言葉がしゃべれないから。つまり表現できないから。
ここで、次なるテーゼが引き出せる。 目に見えないものを信じていても、それを表現することができなければ、(第三者には)信じているかどうかがわからない、したがって、目に見えないものを信じる、ということが実際問題として保証されるには、目に見えないものを信じているということを、表明する自由が保証されなければいけないということ。
そうでなければ実際は自由がないのと同じことだということだ。つまり、奴隷であっても(「提要」を著したエピクテトスのように)内面の自由はある。それはあえて保証する必要のないものだ。
目に見えない超越的な存在(それを神と呼ぼうが、仏と呼ぼうが、宇宙と呼ぼうが、Supreme Beingと呼ぼうが)を、信じる自由が認められるためには(信じているが故に差別を受けたり経済的不利益をこうむったり迫害や弾圧されたりすることがないようにするためには)、それを表明する(信仰告白する)自由が保証されなければならないということだ。 つまり、「信仰告白の自由」。これが英米法下で認められ、この「信仰告白の自由」から「言論の自由」が導き出されてきた。
すなわち、「信仰告白の自由」こそが、人権中の人権であり、言論の自由に優先するものであるということだ。
ここに、「幸福実現党」が宗教政党であるということの意義があると私は思う。
繰り返すが、「信仰告白の自由」こそが、自由の源にあるものであり、人権中の人権であり、これが否定されたら、言論の自由も保証されなくなってしまうということだ。
目に見えない崇高なるものを信じない、ただ何を言ってもいいという言論の自由であったら、犬や猫が鳴くのと変わらないではないか。彼らは人間の言葉をしゃべらないというならキュウカンチョウならどうだ。
つまり、高貴なる精神性を発揮することなく、本能のままに吠えることをもって、言論の自由というのかということだ。 そして、神や仏を信じないという唯物論が、高貴なる精神性だとはとても思えない。
唯物論を基礎とする共産主義が、どれほど多くの人々を迫害・弾圧・粛清してきたことか。
共産主義国家を見れば明らかなように、共産主義はまた、全体主義にもなりやすい。その意味で、私たちが宗教政党を名乗り、自由を守るために行動することは、唯物主義や共産主義、全体主義の脅威から人々を守る上で、大変重要なことだと考える。