保育所時代の想い出
こんにちは。みやもとさとしです。
わたしは、幼年時代、叔父夫婦に預けられ、小松市尾小屋町の保育所に通っていました。
尾小屋は、知る人ぞ知る、鉱山(銅山)の町です(現在は廃坑。当時はまだ銅が出ていたのだと思います)。
友達もたくさんいたし、叔父にはいろんなところに連れていってもらったり、楽しかったという記憶しかありません。
毎週末には叔父に連れられて山を越え坑道のトンネルをぬけて祖父母と両親、弟の住む阿手へ歩いて帰っていました。
坑道を利用したトンネルですから、当然明かりなどありません。叔父がカンテラ(って知ってますか?もう死語?)を提げて、私の前を歩き、しかも後ろを照らして歩いてました。「おっちゃん(と呼んでました。今でもですが)は何であの暗いトンネルを前を照らさないで歩けるんだろうか?」と幼な心に不思議に思っていました。
それから、私は全く記憶にないのですが、関係者の証言によると(誰に聞いたかも忘れてしまったのですが)、初めて幼稚園に行った時(入園式の時でしょうか?)、保育所の庭に石か枝かわかりませんが、何かで線を引いて、「ぼくはこの線から前に行かん!」と啖呵を切ったらしいです。芝居がかってますね。やっぱり両親のもとを離れるのがさびしかったのでしょうかねえ?でも次の日からは、機嫌よく通ってました。
もう一つ、これは確か叔母の証言だったと思いますが、保育所の先生に、「アイス食べたい」と訴えたさとしくんに、先生は優しく、「お家に帰ってから食べてね」とおっしゃったそうです。それを聞いたさとしくんは、さっさと家(叔父の家ですが)に帰ったそうです。もちろん、保育所はまだ終わってないのに!先生に反抗して帰ったんじゃないですよ。早くアイス食べるには、早く帰ればいいんだと単純に思ったらしい。
ある意味、常識にとらわれない、自由な、合理的精神の持ち主と自画自賛。常識がないだけ?
尾小屋について、もうひとつだけ。蒸気機関車が走ってましたっけ?私が住んでた頃は、ディーゼルだったようなきがする。(昭和38~40年頃?)時々は走ってたんですかねえ。
その蒸気機関車を使って、「キーハンター」(古いねぇ!)のロケがありました。あれは私が阿手に帰って小学校(2~3年?)に通っていたころでした。
そうそう、保育所卒園間近の冬、尾小屋にスキー場(大倉岳高原)ができて、当時人気絶頂の西郷輝彦さんが来たのを、叔母に連れられて見に行きました。
若いお母さん方がキャーキャー言ってリフトに殺到する姿を、叔母が冷ややかに見ていたのが印象的でした。