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「あなたは、宗教家を目指すのか、政治家を目指すのか」と問われたら、躊躇いなく「両方」と答えていたが、これだと、二足の草鞋的にとらわれそうですね。もちろんどちらも片手間でできる仕事ではありません。
いや、目指しているのは、「宗教政治家」という、ある意味で新しい領域です。
時代錯誤的、と笑わば笑え。
日本は古来より「祭政一致」の国なのです。
簡単に言えば、神の御心をわが心として政治を執り行う、というのが我が国の伝統であって、これは世界に誇るべきことです。
なぜなら、隣りの某無神論大国は、「人権」などわが辞書に無きが如き極悪非道な弾圧・粛清・迫害・侵略が日常茶飯事ではないですか。
そしてこれは、民主制と矛盾するものではありません。
神の心、神の願いを理想とする人々が集まって、国家のより良き未来を多数決で選べば、その国が神の理想に近づいて行くのは自明ではないですか。
そして、私たち国民の側も、もうそろそろ、「国家(政府)は我々国民のために何をしてくれるのか」と問うのをやめて、「我々国民が、国家のために、国民の幸福のために、何ができるか」と問うように変わっていこうではありませんか。
「ああしてほしい、こうしてほしい」という精神態度は、宗教的に言えば、「奪う愛」であり、「国家のために、他の人の幸福のために何ができるか」と考え、言葉に出し、行動することは、「与える愛」であります。
「他の人の幸福を願う心が、幸福を呼ぶ」という心の法則に従い、上のことを実践する人は幸福になるのです。
これからの世界は、政治に限らず、科学も医学も経済も芸術その他の学問も、単なる技術論だけではなく、精神性まで踏み込まなくてはならない時代に必ず入っていくと思います。
今日は、いつもお世話になってる支援者のYさんと、小松市内をふれあい訪問活動。
夕方は、長田南交差点にて辻立ちをさせていただきました。
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正義!
現在ほど、正義とは何であるかを追究することが大切な時代はない、と私は思います。
この国の人々は、「何が好きで何が嫌いか。」で判断する傾向があるように思います。
たとえば、
「戦争は嫌い。だから、戦争をするのはよくない」
わが子を戦場に送りだすことは、親であるならば、正直にいえば誰もが嫌だと思うこどでしょう。
人を殺すことも、殺されることも、いやだ。
それが、良心のある人々の自然な感情でしょう。
しかし、世界には、正しい戦いと正しくない戦いがある。
正義のための戦いと、悪のための戦い。
自由を守るための戦いと、自由を抑圧するための戦い。
戦わずに争いを避けるだけの平和であったなら、
それは結果として悪を助長することになったり、
自由の抑圧を許すことになったりします。
いま、キリスト教文明と、イスラム教文明が、どちらも正義と大義を掲げて、戦っています。
お互いに自分たちが正義だと思っているわけですが、
だからこそ、両者を統合する、全地球規模での正義を打ち立てる必要があると思うのです。
それは、地球人類として共通の価値基準を樹立するということでもあります。
自由と寛容の精神に満ちた、新しい価値観の樹立。
もちろん、それはそう簡単なことではありません。
全地球規模での全体主義政府を樹立しようなどというものでもありません(そんなことは不可能でしょう)。
しかし、「全地球規模での正義とは何か」ということを、徹底的に探究し、議論していく必要があると思います。
また、それ以前に、この日本において、「正義とは何か」ということが確立されなければならないでしょう。
それは決して、固定化され、教条主義化されたようなものであってはならないと思いますが。
余談ですが、物事は、前提が変われば結論が変わるのが当たり前です。
インフレ期には正しい政策が、デフレ期には間違いになることがあるように。
これが文系的発想ですが、
初の本格的理系宰相と言われる方は、最初に決めた結論通りに物事が進まなければ我慢ならない、と思っておられるようで、そこに怖さを感じます。
これは、「理想主義」ではなく、「理性主義」であろうと思います。
罪と断じたものを情状酌量もなくギロチン台にかける、フランス革命の怖ろしさを彷彿させるのです。
マスコミが作り出す「世論」と呼ばれるものを、何も考えず、ただ唯々諾々と受け入れるのではなく、
「誰が正しいか」ではなく、「何が正しいか」を、判断する目を持つことが大切であると思います。
それがまた、民主主義が衆愚政に出さないように担保するものとなると思います。



