Posts Tagged ‘立憲主義’

憲法学者が「違憲だ」と言ったから、安保法制やめなきゃいけないなら、国会なんかいらないですよね。

憲法学者の多数決で違憲か否かが決まって、その結果、国が滅んだら誰が責任を取るのでしょうか?

憲法学者が違憲だというそのロジックで行くなら、そもそも自衛隊の存在自体が違憲です。
違憲だから自衛隊を廃止しますか?それとも自衛隊を必要と考えるならば、その存在を「違憲」としている憲法の方が間違っているのではないですか?
間違った憲法ならば、速やかに変えた方が良いでしょう。

少なくとも現行の日本国憲法自体は、人間が作ったものでしょう。
どんなに「憲法遵守」を叫んだところで、完璧なものであるはずもない。
「立憲主義」は大切だとは思いますが、憲法学者が言うのは、「憲法至上主義」であって、憲法が金科玉条、不磨の大典になってしまっています。
まさに、どなたかの著書のタイトルではないが、「憲法守って国滅ぶ」となっては本末転倒ではありませんか。
対談相手がいないからといって、変節してしまうのはいかがなものでしょうか?

戦争にさえならなければ、中国に支配されてもいいじゃないか、と考える人もいます。
小さな島の一つぐらいで揉めるのはよろしくない。刺激しないように、小さな島ぐらい、あげてもいいじゃないか、と考える人もいます。
個人の資質として、気前のいいのは美点かもしれませんが、国家主権に関しては、個人と同じようにはいきません。
1ミリたりとも譲ったら、そのあとズルズルとサラミソーセージのように小刻みに奪われていくかもしれません。
そうなったときに誰が責任を取るのでしょうか?

言うべきことは言わなければなりません。
間違いでも押し通せば通り、正義が通らない世の中は良くありません。
日本が本当に間違っているならともかく、そうではないのですから。

憲法9条を守れと言ったり、安保法制を戦争法案と言ったり、米軍基地出て行けと言ったりする人の中には、安倍首相を独裁者呼ばわりする人もいます。
彼らは、自分たちは安全なところに身をおいて、言いたい放題言っているだけのように見えてしかたありません。
安倍首相が本当に独裁者だったら、彼らは言論の自由は与えられないでしょうね。
地上から消えているかもしれません。少なくとも公の場には出てこられないでしょうね。
国家を滅ぼしたり、国を売ったりするような人にも言論の自由がある日本はなんと素晴らしいのでしょうか。

安倍首相が独裁者ならば、リンカンもケネディも独裁者でしょう。
戦争責任者であるリンカンはもちろん、ケネディ大統領は、キューバ危機の際に海上封鎖するかどうかなんて、いちいち議会に諮ったりはしない。
国家の危急存亡のときにはそんなものです。

反対している皆様には、国家危急存亡のときなのだという認識が決定的に欠けているのではないでしょうか。

もうそろそろ、日本国民は目覚めなければなりません。
「自虐史観」という変な薬を飲まされ、眠らされていた状態から、高貴なる国に住まう誇り高き民として、目覚めなければなりません。
神々により守られ、導かれてきたまさしく「神国・日本」の国たみとして、本当の意味で世界平和と繁栄を実現するリーダーとして目覚めなければなりません。
中国であれその他の国であれ、日本を貶め、日本を侵略し、日本の国たみを辱める正当性はどこにもありません。
日本のみならず、いかなる国であれ、不当な侵略主義により、他国を侵略・植民地化させてはならない。
そのための平和と正義の守護神となることを誓おうではありませんか。

昨日は、金沢市東長江交差点にて辻立ちをさせて頂きました。
↓  ↓  ↓
2015年6月15日 金沢市東長江交差点(1/3)
2015年6月15日 金沢市東長江交差点(2/3)
2015年6月15日 金沢市東長江交差点(3/3)


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集団的自衛権—。その行使を容認するか否かを論じることができるようになったこと自体が、今までの日本の政治風景から見れば、時代が変わって来ていることを象徴してはいます。しか行使容認への道は、しばしば「再び戦争のできる国にするのか」と批判されます。
あえて言いますが、「戦争も辞せず」という覚悟がなければいざという時に国を守れるものではありません。
最初から「戦争は致しません」と自ら手足を縛って、「言論で戦う」と言っても「平和を愛する諸国民」とはとても思えないような輩を相手に、言論などという高貴な武器は通用しないでしょう。それはあたかも、サバンナを丸腰で歩いていてライオンに出会って、「私を食べないでくれ」と説得するようなものです。

自由、独立を守るためには、どの国だって、血を流すことを厭わないものです。いや十二分に厭いはするが、のたうち回るような懊悩を経て、あえて青年の血を流さなければならないかもしれない決断をしなければならないこともあるのが、真の責任あるリーダーの姿でしょう。
この世の命を至上と考え、それを守ることのみに汲々とする姿は、ある面で、人間の、と言うよりも動物の本性でありましょうが、人間はそれを超えた高貴なる存在であります。
この世の命のみが至上なのではありません。この世の命を超えて、守るべき崇高なものがあるのです。
この世の命至上主義とでも言うべきものは、ある意味で、唯物主義と変わらず、行き着くところは「自分さえよければいい」という自己中心主義の極致でしかない、ということは、13億か14億かの人口を抱える、隣りの巨大な唯物論国家を見れば、思い半ばに過ぎましょう。

偉大な先人たちは、自らの身命を擲って、この世の命以上に崇高で守るべきものがあることを身を以て示されました。
イエス・キリストしかり。またその弟子たちも。時代を下って、ジャンヌ・ダルク、ヤン・フスもそうであったでしょう。
日本においては、明治維新前夜の吉田松陰先生をはじめとする、数多の志士たち。
名もなく散っていった草莽の志士たち。
大東亜戦争(どこかのメディアでは、プレスコードでこの用語は使ってはいけないそうです)で散華した三百万英霊。
目には見えないけれど、この世の命をも超えた、価値あるもの。
愛、慈悲、智慧、真理、自由、勇気、正義、献身、などなど。
これらを守るために、人はあるときには、自らの命を投げ出すこともあるのです。

やみくもに戦争を欲しているわけでは決してありません。また、戦争を賛美するつもりもありません。
戦争はあるとき起きるものであり、避けることができない場合もあり、そういう場合も想定して備えをするのは例えば国家のリーダーならば当然のことでしょう。
「戦争にいいも悪いもない。戦争はすべて悪い。だから日本は(日本だけでも)戦争はすべきではない」と言う方もいるでしょう。
もし「戦争にいいも悪いもない」のが真理ならば、先の大戦で、負けた日本のみが悪者にされるいわれはなく、勝った連合国側も悪い。
そして、東京大空襲で無辜の民を焼き払い、広島・長崎と2発も原爆を落とした罪は、人類史上最大の虐殺、最悪の「人道上の罪」の一つとして断罪されるべきでしょう。

悪なる戦いと、正義の戦いは、確かにあります。
少なくとも、国民が自由を奪われ、粛清や弾圧を受けるような未来が待ち受けているならば、そうならないように断固として戦うべきだと思うのです。
戦いには勇気が必要です。
あえて言えば、勇気なき国民は滅びるしかないのです。

またある人は言う。「時の政権によって、自由に憲法の解釈が変えられるようでは、立憲主義に悖る。憲法改正こそ筋ではないか」と。
確かに、憲法改正こそ王道でしょう。しかし、それだと何年かかるのですか?目の前に迫る有事に対処できるのですか?
法律(憲法)を守って、国民の命を守れないというならば、それは本末転倒でしょう。
結局、集団的自衛権の行使容認を認めたくないがための言い訳、時間稼ぎにしか思えません。

さらに言いますが、「立憲主義」がさも世界の「常識」のように言われますが、それは果たして真理でしょうか?
「立憲主義」は全能の神のごときものなのでしょうか?
憲法と言い法律と言い、人間が作ったものです。
わけても現行日本国憲法は、GHQ主導で1週間ほどで作られ、「下賜」されたものです。
法の根源にあるものは、神仏の法であるべきですが、近現代の(法)哲学の流れは、そうしたものを否定する方向で流れて来ていると言えましょう。
しかし、人間の作った法が、神仏の法を超えてよいとは、どうしても思えないのです。

人間心、あるいは人間の頭を超えた崇高な理念を語るには、神仏から話を始めなければ無理でしょう。
神仏の存在を、そしてその愛や慈悲を、信じることが、どうしてそれほど難しいのでしょうか。いや、難しくなったのでしょうか。
かつての日本人はそうではなかったはずです。
英霊たちは「靖国で会おう」と言って散って行ったのです。単なる言葉だけの、慰めで言っていたとは思えないのです。
私の幼い頃はまだ、年配の人たちは、神社の前を通る時、一礼して通り過ぎたものでした。
お盆やお彼岸に、お墓参りするのは、決して儀礼としてのみの行為ではなかったはずです。今でも心から故人を偲んで冥福を祈って手を合わせる姿を見るのはそれほど困難なことではありません。

神仏を信じる行為は、決して恥ずべき行為ではありません。
信仰を持っているということは、唯物論国家を除けば、世界の、極めてスタンダードな姿です。
「日本の誇りを取り戻す」とは、「日本人の信仰心を取り戻す」と言うことでもあります。なぜなら、人間としての誇りの根本は、神の子、仏の子として、神仏と同じ性質を宿しているということに行き着くからです。

そしていつの時代も、時代を動かすものは、神の愛であり、神の愛を具現化せんとする使命を帯びた一群の人々であります。
私も、全能の神の愛を具現化する者のひとりでありたいと熱望するものです。

写真は、5月20日野々市市御経塚交差点での辻立ちの様子です。
野々市市御経塚交差点にて

野々市市御経塚交差点にて

下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2014 05 20 野々市市御経塚での辻立ち(前半)
2014 05 20 野々市市御経塚での辻立ち(後半)


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