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「先日、石川県の能登に行きました。小木漁港という漁港では、大和堆と言われる好漁場で毎日、操業していたわけですけれども、ここで集魚灯を焚くと、北朝鮮の船も一緒に集まってきて、イカをどんどん脇から獲っていくということでした。
(中略)そちらの皆様の話を聴きましたところ、この大和堆が、このままだと第二の尖閣になると非常に危機感を持っておられました。
石垣市で「尖閣諸島開拓の日」式典 幸福実現党の釈党首が来賓として出席 | ザ・リバティweb
1月14日、沖縄県石垣市「尖閣諸島開拓の日」式典に来賓として招かれた、幸福実現党・釈量子党首の「尖閣諸島開拓の日を祝う宴」での挨拶より。
不肖私も、微力ながら日本海を第二の尖閣になど絶対にしない、という強い決意でございます。
北朝鮮だけではなく、日本にとっての脅威の本丸・その最強・最大・最悪なるもの・中華帝国も、日本海の現実的な脅威となりつつあります。
北朝鮮から漁業権を買った中国の漁船が日本海にやってきている。
北朝鮮の木造船は、本来、沿海用の10トンばかりの、筏かタライ船のような貧弱な船だが、中国のイカ釣り船は、日本の中型船の数倍の300〜500トンもあるような大型で、しかも「かぶせ網」で根こそぎ獲っていく。
地元の漁師さんによると、これで獲られては大和堆でのイカ釣り漁は、3年と持たないそう。
日本という国は、古来より、争いを好まない、和を以て貴しと為す、大和(やまと)の国でありますが、他国の悪を正すとき、正義の剣を抜くことがあります。
日本古来の伝統・国是に則って、世界正義に悖る行為をする国に対しては、断固として正義を貫かなければなりません。
「平和と調和を愛する国」「正義を尊ぶ国」「神仏を尊ぶ国」・日本の誇りを取り戻しましょう。
2018年が、そのための重要な一年となることを祈って。




最近ビデオで「インビクタス」を観た。ネルソン・マンデラはやはり偉大だった。27年の獄中生活を経て、憎しみではなく許しの境地を得た。釈放されてからも、白人たちは「テロリストが解放された」と恐れていた。ともすれば対立しがちになる黒人と白人の心を一つにし、「虹の国」を作ろうとした。
また最近、チェ・ゲバラに興味を持っている。カストロとともに、キューバ革命を成し遂げた男。
「共産主義革命」というその方向性自体は間違っていたかもしれないが、当時、確かに搾取され、苦しんでいた民を解放しようとした。何よりインタビュアーの、「革命家にとって最も重要なものは?」の問いに対する答えが「愛だ。」「馬鹿らしいと思うかもしれないが-」「真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。」と答えていることに感動した。その愛とは、「人間への愛、正義への愛、真実への愛」だと言う。「愛のない真の革命家を想像することは、不可能だ。」とまで言い切っている。
その他、必ずしもソ連に追随する考えでもなく、「正義の側に立つ」と述べている点、「自由」を求めている点、心惹かれる。
そして、功成り名を遂げた後も、キューバを出国し、革命家であり続けた点も。
現状に満足していては、革命など起こせない。
命を惜しんでいては、革命家の名に値しない。
マンデラと、ゲバラを見て強くそう思う。
さあ、私は、現代の革命家たりうるか?
そうしたことを自問自答しながら立った、12月7日の辻立ちでした。
衆院選が終わって1ヶ月半。
石川2区から立候補した私にとって、久しぶり(5月3日以来7か月ぶりの)金沢市内での辻立ち。
朝日が眩しかった。
- 金沢市東長江交差点にて。




日本人よ、日本人としての誇りを持とう。
心の底に罪悪感を持ち、「自分は悪人だ」「悪人の子だ」と思っている人が幸福になるとは思えない。
自虐的で「自分なんか大したことない」と思っている人が成功するとは思えない。
謙虚さは大切な徳目だが、自己憐憫という袋小路に迷い込むと道が開けることはない。
戦後、日本には「自虐史観」が広く深く蔓延しているが、しかし、日本人よ、少しも恥じることはない。
天に対しても人に対しても。
正々堂々と、日本の正義を語ろう。
日本は、「和を以て貴しとなす」を国是とする国だ。
日本には世界を平和にする使命があるのだ。
日本よ、もっと繁栄せよ。
日本には世界を豊かにする使命があるのだ。
日本よ、正義を貫け。
邪悪なる国家に負けてはならない。
天が祝福され、天から使命を降ろされた国、日本。
日本よ、使命を果たせ。
世界のリーダーとなって、地球を救え。
そのために、幸福実現党は創られたのだ。
そのために、あなたがたは地上に降りたのだ。
今朝は、野々市市新庄2丁目交差点にて、街頭演説をいたしました。
以下はその抜粋です。




「トランプ革命」が本格スタートというところでしょうか。
この波に乗り、日本はアメリカと共同して(追随ではなく)、世界の平和と繁栄を牽引していくべきでしょう。
日本も大きく変わらなければなりません。
それにつけても、我が国の「自虐史観」を一掃しなくてはいけません。
南京大虐殺(APAホテルさんがこの件で炎上しているようですけれど)や、従軍慰安婦の強制連行は、捏造であると、政府がはっきり言えないことは、国民の潜在意識下に抜きがたい罪悪感と自虐意識を刷り込んでいる、たいへん由々しき問題であります。
こうしたことを「歴史修正主義」と批判する方もおられますが、修正とは、間違っていたり、不十分だったりするところを直すことですから、全然いいことではないですか。
何しろ、間違っているのですから。
間違っていることは間違っている。正しいことは正しい。事実は事実。真実は真実。
こう言い続ける人がいなければ、地上から正義は滅んでしまうでしょう。
トランプ氏は、ジョージ・ワシントン同様、「正直さ」をその魂の特性として持っています。
だから、マスコミがどのように報じようが、 どのように暴言に聞こえようとも、生来の「正直さ」は信頼して良いと思いますし、その一見乱暴な言葉の背後には、(細かいところはともかく)深く考え抜かれたクレーバーさが潜んでいると断言できます。
リベラリズムから衰退に向かう方向ではなく、自由から繁栄へと向かう流れになることは間違いありません。
時代は、少し昔戻りするように感じられるかもしれませんが、「努力」「根性」「忍耐」「ガッツ」、こんな言葉に象徴されるように、頑張れば成功できる時代に回帰していくように感じます。
しかし、これは、単に保護されてなんとか生きるという社会よりも、ましてや「濡れ手に粟」の社会よりも、ずっと健全な社会ではないでしょうか。
今週は、18日、19日、20日と辻立ちを致しました。
下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。
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集団的自衛権は、国連加盟国ならば、どの国にも認められている権利です。
権利だから行使しない、という選択肢もありますが、そうするとすべて、個別的自衛権で対処しなくてはならなくなりますから、国民の負担はもっと重くなります。
経済的負担だけではなく、それこそ「徴兵制」「国民皆兵制」等を敷く必要が出てくるかもしれません。
武装そのものが「悪」だという考えもあるかもしれません。しかし、非武装によって国民が蹂躙され、弾圧され、「専制と隷従、圧迫と偏狭」にさらされたら、その責任はだれが負うのでしょうか?
そのような軍事力を行使する(もしくは軍事力を背景に圧力をかけてくる)悪しき勢力から国民を守る武力は、「善か悪か」と言えば、善でありましょう。
「正義の戦い」はありうるのであり、戦いはすべて悪、というのであれば、「水戸黄門」も悪となり、この世は悪代官がはびこる真っ暗闇の世界となります。
昨日は、金沢市東長江にて、辻立ちをさせていただきました。
下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。
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2月27日、石川県知事選が告示となりました。
私は不覚にも、その日、収支報告書を選管に提出しにいく段になって、そのことを思い出したのでした。
ああ、何という無関心!
私は、多選が悪いとステレオタイプには思いません。
何度も選ばれる、ということは徳望や能力があることの証明のひとつではあると思いますし、
どこかの国の首相のように1年経つか経たないかのうちに交代するということは(首相が務まるような人材が掃いて捨てるほどいる、ととれなくはないし、「高速回転民主主義」という、時代の最先端を走っていると善意に解釈できなくもないとは思いますが)、基本的には諸外国からは不安定でなかなか信頼が置けないように見られるところはあると思います。
政権の安定という意味では利益があります。
しかし、新しい人や新しい政党が出にくい、あるいは不利な状況になる、というのは宜しくないでしょう。
新人は新人なるが故にそれまでの実績はなく、それゆえ通常は放っておいても現職が有利になるのですから、公平性を担保することはかなり難しいことではありますが、
複数の人々が、チャンスは平等に与えられ、行為は公平に扱われ、お互いに切磋琢磨できることが望ましいと思います。
同様に、県外出身者だから駄目とも、いいとも思いません。
他県出身だから石川を愛していないとはいえないし、逆に石川県にずっといる人より、石川のことが(長所も短所も)よく見えたりするということもあり得るのではないでしょうか。
もちろん、石川出身で、石川をすごく愛しており、石川の発展のためにはその命を惜しまない、という人もいるでしょう。
だから一概にはいえません。
要は、どれだけ県民を幸福にできたか、「最大多数の最大幸福」をどこまで実現できたかで測られるべきでしょう。
政治は結果責任とよくいわれます。
そして、その責任は、選んだ側にも返ってきます。
個々の選択は違う(私は違う党を選んだ)と言うかも知れませんが、多数の選択の結果の、幸福も不幸も、選んだ側が享受することのなるのです。
民主主義とは即ち、民が責任を負う政治システムなのだなあ、とつくづく思います。
そして「結果責任」という以上、結果が出てみなければ分からない、という面があります。
これが民主主義のもどかしいところでもあります。
5年前、「政権交代」という国民的熱狂のなかで、民主党政権が誕生しました。
その後、日本国民は、悪夢のような4年間を経験しました。
これが民主主義の恐ろしいところでもあります。
思えば、ナチスを選んだ、かつてのドイツ国民もそうでした。
ドイツ国民は皆愚かだからナチスを選んだのかと言えば、決してそうではありますまい。
一言で「衆愚制」とは片付けられないものがあると思います。
どうしたらこうした「悪夢」が防げるでしょうか?
まずは「無関心」であることをやめることではないでしょうか。
そして、「◯◯だから当然◯◯だ」という思い込みや偏見を捨てて、白紙の目で見ることが大切ではないでしょうか?
さらには、政策の是非もさることながら、それ以前に正邪善悪を明らかにする目を養うことが大事なのではないでしょうか?
日本人は概して、正邪を分つ、正義の判断を下す、価値判断をする、ということが苦手なようです。
が、民主主義が健全に機能するためには、ここは避けて通れないところではないでしょうか。
反省と自戒を込めて。




経済分野で安倍首相のブレーンとなっている本田悦朗内閣官房参与がアメリカの有力紙のインタビューに応じ、「日本が力強い経済を必要としているのは、より強力な軍事力を持って中国に対峙(たいじ)できるようにするためだ」などと話した。
「力強い経済、軍事力で中国に対峙のため」日本テレビ系(NNN) – Yahooニュース
本田参与の発言は、全くその通り。
何の問題もない。
衛藤補佐官の発言も、その通りだと思う。
取り消したことに「失望」したいくらいだ。
こうした発言をとらえて、「波紋を広げる可能性がある」などと、わざわざ不安をあおるようなことを言うマスコミ。
本音で語れない、正論を語れない、政治には、本当に失望しそうになりますが、しかしそれでも、正義の実現を目指して、不退転の気持ちで、戦い続けるしかないでしょう。




遡って無効である。
幸福実現党・大川隆法総裁によって出された「大川談話ー私案ー(安倍総理参考)」は、「河野談話」「村山談話」を、それぞれ1993年、1995年に遡って無効化するものである。
戦後日本の空気の中で、流され続けてきた毒水、「自虐史観」を、決定的なものとしてしまった両談話を、一蹴する談話である。
「なお、本談話により、先の『河野談話』『村山談話』は、遡って無効であることを宣言する。」と高らかに宣言している。
一体なんびとが、このような言葉を思いつくであろうか。
そして、全文を通して、真実が語られ、語り尽くされて無駄がない。解説も無用だろう。
蛇足ながら、所感を述べると、
まず冒頭、両談話を、「歴史的事実として証拠のない風評を公式見解としたものである」と斬って捨てている。正当性がまるでないと言い切っているのだ。
そして、かかる妄説を公式見解としてしまったことの重大さを、約三百万人の英霊とその遺族に対し、「由々しき罪悪感」と戦後に生きた国民に対し、「いわれなき自虐史観」を押しつけ、「この国の歴史認識を大きく誤らせた」としている。
そのこと自体を、「政府として、ここに公式に反省する」と。
しかり、反省とは、かくのごときものなり。
反省とは、未来、発展向上していくためにこそ必要なものであり、ただ懺悔するだけでもなければ、永遠に罪悪感を持ち続けるためのものでもない。
反省はそれによって、わが国の誇りを取り戻し、世界の平和と幸福に貢献するものでなければならない。
中段では、大東亜戦争を次のように定義づけている。
「欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたものである。」
欧米列強が、アジアの植民地から、いったいどれだけの搾取をしていたことか。これに対して、日本の、台湾や朝鮮半島の統治は、「搾取」とはほど遠く、道路・鉄道・港湾等のインフラ整備、果ては帝国大学の建設等、内地からの「持ち出し」が多かった。
また、日本は世界で初めて、国際会議の場で人種差別撤廃を訴えている。1919年のパリ講和会議では、国際連盟の規約に、人種差別撤廃条項を入れるよう提案したのは牧野伸顕全権代表だった。
そして、この戦争は、敵方だったマッカーサー元帥自身が、米上院の軍事・外交委員会で、日本の自衛のための戦いであったことを証言している。
「政府として今一歩力及ばず、原爆を使用したアメリカ合衆国に敗れはしたものの」、確かに、戦略の拙さもあった。これは後から言えることであり、その当時、自分が当事者だったら同じことをしたかもしれない。敗れたのは事実だから、言い訳しようがない。それはそれとして、原爆を2発も落とされたのは決定的だったろう。それ以外にも、首都・東京を幾度も空襲され、昭和20年3月10日の大空襲では、10万人を超える人々が亡くなっている。まことに残念ながら、「今一歩力及ばず」だったのだ。
かくして、敗れはしたものの、「アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしものと考える。」すなわち、日本の神々の熱き思いを実現する「聖戦」であったのだ。
これでこそ、300万英霊は報われる(成仏できる)というべきだろう。
まさしく、「神の国・日本」なのである。
ここに、日本を唯物論国家にはしないという、神々と、その意を受けた者たちの決意を明らかにしている。
神仏について語る人々を馬鹿にしたり、嘲笑したりするような文化風土のままでは、唯物論国家ー中国や北朝鮮のようなーとかわらないのだ。
聖なる戦い、正義を実現するための戦いというものはあり得るのであり、そのための神の軍勢というものも、あり得るのだ。
そして、圧巻の後段へと続く。
「日本は今後、いかなる国であれ、不当な侵略主義により、他国を侵略・植民地化させないための平和と正義の守護神となることをここに誓う。国防軍を創設して、ひとり自国の平和のみならず、世界の恒久平和のために尽くすことを希望する。」
平和と正義の守護神たらんとする、力強い宣言である。その願いとするところは、「世界の恒久平和」である。崇高なミッションを自ら掲げ、誓っている。
まさに、高貴なる国・神々の集う国・日本がその高貴なる使命(ノブレス・オブリージ)を果たすという宣言である。
そして最後の一文が、冒頭紹介した「なお、本談話により、先の『河野談話』『村山談話』は、遡って無効であることを宣言する。」という件である。
安倍総理におかれましては、本談話を参考にして、ぜひ、「河野談話」「村山談話」を見直す談話を発表していただきたいものである。
後世の人々から、「あの談話がターニングポイントであった。あの談話により、日本民族が永遠に罪悪感を背負い、贖罪し続けなければならない状況から脱し、わが国の誇りを取り戻すことができ、憲法9条改正と、国防強化の大きな後押しとなった」と評されることになるだろう。
安倍総理が、国難を突破した、未曾有の名宰相として名を遺されますことを、心から祈念致します。
あと、付け足しだが、消費税増税は中止しましょう。
これを実行してしまうと、自らの名を冠した経済政策によってせっかく上向きかけた景気を、自ら腰を折ってしまい、日本経済を危殆に瀕せしめた愚かな宰相として末代まで汚名を遺すことになりますから。
大川談話ー私案ー
↓ ↓ ↓
http://special.hr-party.jp/policy2013/okawa-danwa/




政治に正義を。
「だれが正しいか」ではなく、「何が正しいか」によって選ばれる政治を。
組織や団体のしがらみではなく、「みんなが入れるから」でもなく、有名人だから、でもなく、
有権者一人一人が自らの良識に照らして、候補者や政策を選択してゆく政治を求めたいと思います。
日本に勇気を。
たとえばTPP。既得権益を守るために、ただ交渉参加に反対するのではなく、より発展するために、交渉する勇気を。
たとえば外交。相手を慮って言わないけど察してね、というのは多くの場合、日本国内だけで通用することです。この世では、言葉でハッキリ主張しなければ、真意は伝わらないのです。
たとえば”下山の思想”。日本はもうピークを過ぎ、衰退してゆくしかないのでしょうか?そんなことは誰が決めたのでしょうか?
1980年代の繁栄期、株価は4万円近くになり、東京23区の土地代でアメリカ全土の土地が買えるほど日本は豊かでした。その後バブルが崩壊して長期不況に入った原因をメンタルな面に求めるならば、「それ以上の発展が怖かった」ということです。
地球人口100億人に向かって驀進しているいま、人類を飢えや紛争から救うためには、繁栄こそが義務であると決定(けつじょう)しなければなりません。「日本よ、繁栄する勇気を」。
そして、「国防」です。戦後、国防について論ずることは、長らくタブー視されてきました。こんなことは、独立国にとってはありえないことです。
平和と言っても、降伏し、屈服し、隷属化におかれた平和ならば、意味がありません。
この国を守り抜く勇気を。タブーを恐れず議論する勇気を。
そして、世界に自由を。
世界はいま、自由の危機に瀕しています。
共産党独裁の専制国家による覇権主義は、自由にとっての最大の脅威であることは言うまでもありませんが、
自由主義陣営と呼ばれる国々においても、高福祉国家という名の社会主義が忍び寄っています。
日本も例外ではなく、アメリカでさえ、オバマ政権下で左傾化の方向に進んでいます。
それは、「増税」という形で表れてきます。
増税は、つまるところ、私有財産の制限であり、
経済的自由を抑制することになります。
経済的自由なくして、個人的自由も政治的自由もないのです。
軍事的脅威から、そして忍び寄る社会主義の誘惑から世界の自由を守り、自由からの繁栄を実現するためにも、
政治に正義を打ち立て、勇気を持って挑戦し、変革してゆかなければなりません。
きょうは、野々市市内で辻立ちをいたしました。




裁判員制度が憲法に反するかどうかが争われた覚せい剤取締法違反事件の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)は16日、「憲法上、国民の司法参加が禁じられていると解すべき理由はない」として、合憲との初判断を示した。
制度の合憲性に関する最高裁の判断は2009年5月の制度開始から約2年半で初めて。憲法の条文に直接の規定がない制度の法的な位置付けを明確にした。最高裁の裁判官15人全員一致の結論。個別意見を述べた裁判官はいなかった。
裁判員制度は「合憲」 最高裁大法廷が初判断 – 47NEWS(よんななニュース)
「国民が、当事者意識を持つため」という趣旨も理解できる。
「法曹関係者が、国民目線で仕事をするようになる」ということも、わかる。
「憲法上、国民の司法参加が禁じられていると解すべき理由はない」というのもその通りだろう。
それでも、いくつか疑問が生ずる。
裁判員に選ばれた場合の、時間的拘束。それに伴う経済的損失など、様々な損失もあるだろう。
アメリカの陪審員制度と違い、有罪か無罪かの判断だけでなく、量刑まで判断しなければらなない点。たとえば「死刑か否か」の判決が、自分の判断に影響されるなどというのは、普通に考えれば、大変な精神的プレッシャーだろう。
「裁判官」というのは、大変な専門性を要求される職業だと思っていたし、今も思っている。
それを、「意見を聞く」などというレベルではなく、半数とは言え、「素人」ともいえる国民の手に、量刑まで委ねるとなると、本来要求される専門性は、どうなっているのだろう?給料は半分でいいんではないか?と言いたくなる。
たとえば、お医者さんに、国民目線の仕事をしてもらうために、診察には半数の一般人に参加してもらう。それも、病気か健康かの判断だけでなく、病気の場合の処方箋まで意見を言ってもらう、となったらどうだろう。
もちろん、医学と裁判の世界は違う。
冒頭に挙げた主旨は、重要だと思う。
私は、裁判員制度そのものに反対するわけではない。
何かと「お上頼み」の日本人が、「正義とは何か」を決めてもらうことまで「お上」に委ね続けるのではなく、「何が正しいか」「何が正義か」を探究し、議論し、判断することは、自由と民主主義をより高次なレベルに押し上げるためにはよいことかとも思う。
ただ、現行の制度のままでは、裁判員に選ばれる国民の負担と、専門家たるべき裁判官の責任放棄の側面が大きいように思われる点、改善が必要だろう。



