Posts Tagged ‘宗教教育’

昨日のブログで、滋賀県の中学校のいじめ事件について触れたところ、ある方から、「いじめは昔から陰湿だった。『被害者の方が悪い』と言われて、被害に遭っても言えなかっただけだ」とのご指摘を受けた。

おっしゃる通りだ。

現代のいじめの方が昔に比べて陰湿かどうかなんて、一概には言えない。

20年前も100年前も1000年前も、いやそれ以前にも、いじめはあっただろうし(それも陰湿な)、現代でも、ちょっとからかった、という程度の軽いものもあるだろう。

いや、からかった方は本当に軽い気持ちで言っただけだと思っていたとしても、被害者の方がひどい精神的苦痛を受けたという場合もある。

また、私は戦後の左翼教育に問題ありと指摘したが、戦前・戦中の教育には全くいじめがなかったというつもりもないし、その中には、現代よりも陰湿なものもあっただろう。

ただ、問題は、現代のいじめが、かつて(30年~40年ぐらい前だろうか)に比べ、構造的・組織的になっていることだ。いじめは容易に起こりうるし、常態化しやすく、また、隠蔽しやすい状況にあるということだ。

いじめられた人に対して、「いじめに負けずにたくましく生きていってほしい」と言うのは正論ではあっても、実際問題、多勢に無勢ではどうにもならないし、教室などでは逃げ場がない。せいぜい保健室に逃げるか、それもつらくなれば不登校となるのが関の山だろう。

他方、いじめた方に何のお咎めもなし、ということがあってはいけない。

犯罪性の高いいじめは、厳罰に処すべきだろう。

かつては、成績優秀な(頭の良い)生徒がリーダーとして、中間管理職的に先生をサポートする役割を担うことも多かったが、今はそういう頭の良い生徒が黒幕となって、自分は手を汚さずに、仲間を使っていじめをさせる場合も多いようだ。

また、善意ある生徒が、いじめられている子をかばおうとすると、今度はその生徒も標的にされるので、自分がいじめられないように仲間に入っていじめる方にまわる場合もある。そこまでいかなくても見て見ぬふりをする、というケースも多い。

担任の教師が強く、リーダーシップがあれば、善悪を峻別し、いじめグループの悪を止めさせることができるが、教師の力量が弱い場合、彼らを敵に回すと学級崩壊を起こすため、そちらに迎合したり、加担したりすることさえある。

戦後の左翼教育の問題点の一つとして、善悪をハッキリ教えるところが弱く、「何が正しいか」「何が間違っているか」という価値判断を避けるという点があげられる。

何もかも話し合いによって決めるのがよいという、誤った民主主義の解釈、行き過ぎた平等主義によるところの影響大だと思う。

また、学校が聖域化して、第三者のチェックが入りづらくなっていることも、隠蔽体質を助長する。

みんなが口をつぐんで「なかったことにしよう」と言えば見事に隠蔽されてしまう。

以上が、特に戦後教育の問題点として挙げられよう。

幼・少年期、特に学生時代は、80年の人生を形成するうえでの基礎をつくる、とても重要な時期である。

この期間が幸福だったという人は、一生を貫いて幸福な人生の道筋を示されるようなものだ。

もちろん、この期間が不幸だったという人も、それでもう一生が不幸というように運命が固定されるわけではない。努力によって人生行路を変えていくことは可能だ。

しかし、この年代は、自分の努力もあるがそれ以上に、両親や教師などの大人たちの指導・管理下に置かれ、その影響を強く受ける時期である。自分の自助努力の範囲を超えて幸不幸が規定される面が強いのだ。

だからこそ、この時期の子供たちには、できるだけ幸福な想い出を、たくさん作ってほしいと思うし、学校においても、家庭においても、社会においても、大人たちはそれをサポートする義務があると思う。

その大人たちの、献身や奉仕の姿勢を見て、子供たちも、他人を思いやる心、他に与える心の大切さを学んでいくことだろう。

いじめもなく、お互いの個性を尊重し、能力を祝福しあい、共に切磋琢磨しながら、友情をはぐくみ、成長していけるような学校があれば、それは一つの理想的な学校だ。

「実社会に出たっていじめはあるのだから、学校でも経験しておけばよい」という意見には与しない。実社会にあるいじめも、本来あるべからざるものである。それを学校教育の場で正当性を認めるようなことは、してはいけないことである。やはり、あくまで理想を追求していくところにこそ、教育の真骨頂があると考えるべきである。

こう考えると、教育にも、国家にも、背骨ともいうべきよりどころとするべき普遍的な倫理規範が、どうしても要る。

その根本の話をするときに、どうしても神仏の話から始めなければいけないのである。

宗教、とりわけ新興宗教を怪しげなものと思い、唯物論・無神論的思潮が強い日本においては、なかなか納得していただけないところであるが、私たちが宗教立国を標榜する所以もここにある。

教育においても、その再生の鍵は、正しき宗教教育にあると信ずるものである。


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滋賀県の中学校で、男子生徒(15)を全裸にさせて悪質ないじめをしたとして、同級生3人が逮捕された。

FNNニュース: 滋賀県の中学校で男子…

こういうニュースを聞くと、憤りを禁じえない。

強き者、優れた者、富める者は、弱いものを慈しみ、労わり、支えてこそ、その強さ、優秀さ、豊かさは正統性を持つ。

10年か、あるいは20年前ならば、「いじめられる方にも問題はある」という論法は、それなりに正当性があるように思えた。

しかし、昨今のいじめはそんなレベルではない。

「空き巣に入られるのは、ちゃんと戸締りしなかったからだ」という論法もあるが、近頃は、相当な警備態勢を敷いていても、宝石店などに強盗が入るご時世だ。

つまり、それだけ凶悪化しているということだ。

「被害者と、加害者が、話し合えばよい」という論者は、最近のいじめが極めて陰湿で、凶悪化しているという事実を見逃している。

民事事件なら、当事者同士で示談で済ますということもあり得るが、凶悪犯人相手の刑事事件で、話し合いで決着をつけるなどということはありえないのと同様だ。

「いじめ」に対しては、それを犯罪とみなして厳罰に処する、という覚悟が必要だ。
ことは子供たちの命にかかわる。
たとえ死に至らなかったとしても、長きにわたって、被害者の心に傷を残すことになる。この傷は容易には癒されない。
学校とは言え、聖域にしてはならない。
ましてや「なかったことにする」みたいな隠蔽体質は、許されることではない。

今回の事件に対する学校側の対応は適切だったのか否かは、この記事だけではわからない。が、少なくとも隠蔽され、闇から闇に葬られなかったことは不幸中の幸いかもしれない。

同時に、まだ明るみになっていないいじめが、全国にもたくさんあることはほぼ確実だとも思う。

それにしても、高島市と言えば、「馬子の正直」のエピソードで知られる、近江聖人・中江藤樹を生んだ地。
天上界の藤樹先生もさぞ残念なお気持ちだろう。
日本人の道徳的・宗教的荒廃を暗示しているような気がしてならない。

日本全体が、戦後の長い左翼教育の中で、道徳や、宗教教育が軽視され、「人と差をつけることはよくない」というような風潮の中で、偉人について学ぶことも十分にないような状況が続いていたかのように思う。

左翼教育の流した毒水は、私たちが思っている以上に現代日本に深刻な事態をもたらしていると思う。

偉大な先人・中江藤樹先生の遺徳を汚すことなく、
滋賀県が、素晴らしい教育県として再生することを、願って止まない。


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