Posts Tagged ‘唯物論国家’

靖国参拝を自ら封印し、小笠原の密漁にも打つ手なし。
(200隻もの船でやってこられては、そもそも「密漁」などとは言えないだろうが。)

「尖閣諸島など東シナ海の海域で近年緊張状態が生じていることに異なる見解を有していると認識し、…」などと、領土問題が存在すると取られても仕方がないような合意をしてしまうし。

彼らが尖閣諸島や小笠原諸島に上陸し、占領し、あるいは海保や自衛隊を攻撃するような事態が発生しても、現政権に断固たる対応ができるだろうか?
「私には判断できない」「遺憾です」ぐらいしか言えないかもしれない。
これは幸福の科学が製作し、一昨年公開した映画「ファイナル・ジャッジメント」や「神秘の法」で見たシーンではないか。

現政権は、信仰心を捨て、唯物論国家に擦り寄り、妥協する道を選んだかのように見える。

確かに言えることは、その道は滅亡への道であることだ。

一昨日、私が勤めている宗教法人幸福の科学の支部に、金沢市在住の一般の方からお電話をいただいた。
国防に大変関心がおありのようで、沖縄県知事選のことも大変心配しておられ、「日本は戦争になるのでしょうか?」など、さまざま尋ねられた。
私自身の見解を交えてお答えし、最後に、「戦争にならないように私ども幸福の科学グループも微力ながら努力しているところです」と、悔しいが、未だ国政に直接かかわっているわけではない当方としては、そうお答えするのが精一杯だった。

この国の行く末を心配されている方が、現政権の与党ではなく、他の政党でもなく、宗教法人である私どもの支部に電話をかけてこられるとは、どのようなお気持ちなのか、わからなかったが、当グループが発信している内容に一定のご信頼をいただいている方がいらっしゃる一つの証左であろうと思う。

私たちは、滅亡への道を決して甘受しはしない。

滅亡ではなく、繁栄への道を選ぶことをここに誓おう。
それは、「内なる革命」から始まっていく。
これまで、「常識」とされていたことを、逆転させていくことから始まる。

信仰心と、サムライ精神の復興が必要だ。


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幸福実現党は、宗教政党です。しかも、いわゆる「新興宗教」を支持母体として。
この一事を持って、わが国では大変なハンディキャップを背負って戦わなくてはなりません。
(この日本は確か唯物論国家ではないはずなのですが。また、どんな世界的な大宗教であっても、はじめは新興宗教であったはずですが)
しかしそれでもなお、宗教政党である、ということを背負って戦う意義、大義はどこにあるのでしょうか。
それについて考えてみたいと思います。

いわゆる「政教分離」の根っこには、宗教イコール悪、と見る見方があるように思えます。
日本的常識の中では、「政教分離」が普遍の真理であるかのようにも見えますが、日本、いや、世界の歴史を眺めてみても、決して普遍的な真理でもなんでもないことが分かります。
古来、日本においては、祭政一致であったし、イスラム教国は言うも更なり。アメリカ合衆国も、大統領が聖書に手をおいて宣誓することからも明らかな通り、実質的にはキリスト教国、もっと言えば指導者層は、WASPとも呼ばれる、プロテスタントが主流であります。さらに深いところでは、ユダヤ教の影響も強く流れています。キリスト・ユダヤ合体文明と見ることができます。

厳密な意味で、政教分離を実践しようと思ったら、それは唯物論国家になるしかありません。
しかし唯物論国家の実態が悲惨であることは、ここ100年ほどの文明実験で明らかです。

本稿は、宗教イコール悪と見做す唯物論的常識に対する宗教からの反論です。

唯物論者は、宗教はアヘンである、と言います。
しかし、宗教の側から言えば、宗教は人々を救済し、悟りに到らしめ、幸福に導くものであります。

唯物論者は言います。あの世に行って帰って来たという人などいないではないか。存在もしない神や仏やあの世などがさも存在するようにいい、人々を惑わし、地獄に堕ちるなどと脅して布施をさせて金品を巻き上げるのが宗教の常套手段だと。
信仰者は反論します。神が存在しないなどと証明できた人はひとりもいない。なぜあなたはここに存在するのか。万物が存在するのは、第一原因者たる神(創造主)が存在するからである。また、ごく限られた、特殊な能力を持つものに限られるにしても、霊界探訪をしたという人は存在する(例。スウェーデンボルグ、出口王仁三郎など)し、近年では、臨死体験などを体験する人も少なからずいる。彼らが見て来た世界は、ほぼ、一致する。これを幻覚や脳の作用とは必ずしも言い切れない、と。

また、唯物論者は言います。宗教があるから戦争や紛争が起きるのだ、と。
宗教者は言います。自動車があるから交通事故が起きるのだという論理に似て、では自動車をなくせばすべてが良くなるかと言うと、たちまち現代文明は成り立たなくなる。
宗教を否定した唯物論国家においては「人権」など壊れた機械のように踏みにじられ、前述のようにさらに悲惨な状況になる(未だに“楽園”などと信じている洗脳されている人もごく少数だがいないことはないが)。
「宗教があるから」ではなく、「教派の違いを理解できない人間の認識力の不足」つまり人間の側の未熟さ故に争いが起きるのだ、と。

他にもいろいろな論点があります。この論争は延々と続いて行くであろうものでもありますが、また稿を改めて論じて行きたいと思います。


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集団的自衛権—。その行使を容認するか否かを論じることができるようになったこと自体が、今までの日本の政治風景から見れば、時代が変わって来ていることを象徴してはいます。しか行使容認への道は、しばしば「再び戦争のできる国にするのか」と批判されます。
あえて言いますが、「戦争も辞せず」という覚悟がなければいざという時に国を守れるものではありません。
最初から「戦争は致しません」と自ら手足を縛って、「言論で戦う」と言っても「平和を愛する諸国民」とはとても思えないような輩を相手に、言論などという高貴な武器は通用しないでしょう。それはあたかも、サバンナを丸腰で歩いていてライオンに出会って、「私を食べないでくれ」と説得するようなものです。

自由、独立を守るためには、どの国だって、血を流すことを厭わないものです。いや十二分に厭いはするが、のたうち回るような懊悩を経て、あえて青年の血を流さなければならないかもしれない決断をしなければならないこともあるのが、真の責任あるリーダーの姿でしょう。
この世の命を至上と考え、それを守ることのみに汲々とする姿は、ある面で、人間の、と言うよりも動物の本性でありましょうが、人間はそれを超えた高貴なる存在であります。
この世の命のみが至上なのではありません。この世の命を超えて、守るべき崇高なものがあるのです。
この世の命至上主義とでも言うべきものは、ある意味で、唯物主義と変わらず、行き着くところは「自分さえよければいい」という自己中心主義の極致でしかない、ということは、13億か14億かの人口を抱える、隣りの巨大な唯物論国家を見れば、思い半ばに過ぎましょう。

偉大な先人たちは、自らの身命を擲って、この世の命以上に崇高で守るべきものがあることを身を以て示されました。
イエス・キリストしかり。またその弟子たちも。時代を下って、ジャンヌ・ダルク、ヤン・フスもそうであったでしょう。
日本においては、明治維新前夜の吉田松陰先生をはじめとする、数多の志士たち。
名もなく散っていった草莽の志士たち。
大東亜戦争(どこかのメディアでは、プレスコードでこの用語は使ってはいけないそうです)で散華した三百万英霊。
目には見えないけれど、この世の命をも超えた、価値あるもの。
愛、慈悲、智慧、真理、自由、勇気、正義、献身、などなど。
これらを守るために、人はあるときには、自らの命を投げ出すこともあるのです。

やみくもに戦争を欲しているわけでは決してありません。また、戦争を賛美するつもりもありません。
戦争はあるとき起きるものであり、避けることができない場合もあり、そういう場合も想定して備えをするのは例えば国家のリーダーならば当然のことでしょう。
「戦争にいいも悪いもない。戦争はすべて悪い。だから日本は(日本だけでも)戦争はすべきではない」と言う方もいるでしょう。
もし「戦争にいいも悪いもない」のが真理ならば、先の大戦で、負けた日本のみが悪者にされるいわれはなく、勝った連合国側も悪い。
そして、東京大空襲で無辜の民を焼き払い、広島・長崎と2発も原爆を落とした罪は、人類史上最大の虐殺、最悪の「人道上の罪」の一つとして断罪されるべきでしょう。

悪なる戦いと、正義の戦いは、確かにあります。
少なくとも、国民が自由を奪われ、粛清や弾圧を受けるような未来が待ち受けているならば、そうならないように断固として戦うべきだと思うのです。
戦いには勇気が必要です。
あえて言えば、勇気なき国民は滅びるしかないのです。

またある人は言う。「時の政権によって、自由に憲法の解釈が変えられるようでは、立憲主義に悖る。憲法改正こそ筋ではないか」と。
確かに、憲法改正こそ王道でしょう。しかし、それだと何年かかるのですか?目の前に迫る有事に対処できるのですか?
法律(憲法)を守って、国民の命を守れないというならば、それは本末転倒でしょう。
結局、集団的自衛権の行使容認を認めたくないがための言い訳、時間稼ぎにしか思えません。

さらに言いますが、「立憲主義」がさも世界の「常識」のように言われますが、それは果たして真理でしょうか?
「立憲主義」は全能の神のごときものなのでしょうか?
憲法と言い法律と言い、人間が作ったものです。
わけても現行日本国憲法は、GHQ主導で1週間ほどで作られ、「下賜」されたものです。
法の根源にあるものは、神仏の法であるべきですが、近現代の(法)哲学の流れは、そうしたものを否定する方向で流れて来ていると言えましょう。
しかし、人間の作った法が、神仏の法を超えてよいとは、どうしても思えないのです。

人間心、あるいは人間の頭を超えた崇高な理念を語るには、神仏から話を始めなければ無理でしょう。
神仏の存在を、そしてその愛や慈悲を、信じることが、どうしてそれほど難しいのでしょうか。いや、難しくなったのでしょうか。
かつての日本人はそうではなかったはずです。
英霊たちは「靖国で会おう」と言って散って行ったのです。単なる言葉だけの、慰めで言っていたとは思えないのです。
私の幼い頃はまだ、年配の人たちは、神社の前を通る時、一礼して通り過ぎたものでした。
お盆やお彼岸に、お墓参りするのは、決して儀礼としてのみの行為ではなかったはずです。今でも心から故人を偲んで冥福を祈って手を合わせる姿を見るのはそれほど困難なことではありません。

神仏を信じる行為は、決して恥ずべき行為ではありません。
信仰を持っているということは、唯物論国家を除けば、世界の、極めてスタンダードな姿です。
「日本の誇りを取り戻す」とは、「日本人の信仰心を取り戻す」と言うことでもあります。なぜなら、人間としての誇りの根本は、神の子、仏の子として、神仏と同じ性質を宿しているということに行き着くからです。

そしていつの時代も、時代を動かすものは、神の愛であり、神の愛を具現化せんとする使命を帯びた一群の人々であります。
私も、全能の神の愛を具現化する者のひとりでありたいと熱望するものです。

写真は、5月20日野々市市御経塚交差点での辻立ちの様子です。
野々市市御経塚交差点にて

野々市市御経塚交差点にて

下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2014 05 20 野々市市御経塚での辻立ち(前半)
2014 05 20 野々市市御経塚での辻立ち(後半)


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この世界が、「神も仏も信じない」という世界になってよいものであろうか。
「神も仏も信じない。宗教はアヘンだ」という思想に基づいてつくられた国家が、どのようになっているか。
中華人民共和国が、チベットやウイグル、内モンゴル自治区でやっているような弾圧、虐殺、民族浄化。
あるいは、国家全体が、収容所列島とかしているかのような北朝鮮の姿を見たとき、思い半ばにすぎるでありましょう。
それは、この文明が進んだと言われる21世紀に、現実にあり得るのかと目を疑うばかりの惨状が展開しているのであり、まさしくこの世の地獄であり、そういうことをしている人々の行為は、悪魔の所業と言うべきでしょう。
「神を信じない」という思想が行き着くところは、結局、このような結末になることを示しています。

他方、神を信じる人々の間であっても、キリスト教対イスラム教の戦いが過去もあり現在もあり、ユダヤ教とイスラム教も激突し、また、同じ宗教内でも宗派の違いによる対立あり。「宗教があるから、戦争が起きるのだ」という論理は一見正当なようにも見えます。
それは皮相浅薄な見方にすぎないのですが、それを論じることは暫く措くとして、では、地上から宗教が亡くなったら、どのような世界が展開するか。
前述のような地獄図絵が展開しないと誰が保証できましょうか。

人間の本性として、神仏を信じる心は、しぜんに備わっていると言ってよいでしょう。
それが証拠に、 ソビエト連邦崩壊後は、ロシア正教が復活してきましたし、あの共産主義国家中国であっても、キリスト教が広がりを見せています(それを恐れたのか、当局は、信者さんのお布施でまさに建たんとしていた教会を、無惨にも「建築法違反」の廉で破壊したのでした)。

唯物論というのは、たかだかここ200年ばかりに流行った思想であって、決して普遍的な思想ではありません。はっきり言って間違いです。
また、「政教分離」というのも、普遍的な原理でもなんでもありません。
戦後日本は、あまりにも「宗教=悪」という刷り込み=洗脳がなされて来ているようです。

しかし、日本人は、心の奥底では、神仏を信じているのだと思います。
信仰心が底流に流れているが故に、ほとんどの日本人は、初詣に神社仏閣に参拝し、 お盆にお墓参りに行き、神前やキリスト教会、ある人はお寺で、結婚式を挙げます。さらには、クリスチャンでなくても、クリスマスを祝います。お葬式は仏式がメインかと思いますが、神式、キリスト教式もあります(最近は、僧侶などに頼まない葬式の仕方がはやろうとしているようですが、本来、引導を渡す=死後の世界への導きを与えるのが僧侶の仕事であり、それなりの修行を積んだ聖職者にして初めて可能となる極めて専門性の高い仕事なのです)。
神仏、あるいは目に見えない世界から私たちを見ている存在がある、ということを信じる心が底流に流れているからこそ、あの東日本大震災の際も(阪神淡路大震災のときもそうでした)、決して暴動も略奪も起こさず、静かに耐え、復興に努めることができるのだと思います。その姿に、私たちも感動し、世界も賞賛したのでした。

それを、戦後の誤った教育やマスコミなどの洗脳により、裏側に押し込められ、何やらうさんくさいもの、後ろめたいもの、恥ずかしいもの、弱いもののすること、といったような刷り込みがなされて来ました。
信仰ある人々が、それを表立っていうことを恥ずかしいと思うような、そんな操作が功を奏して来たのです。

しかし、人間が本来持っている性質、仏性あるいは神性から生ずる神仏を求める心を誰が止められましょうか?

私たちは、今こそ、「神のものを、カイザルの手から取り戻すとき」と考えます。

地上の人々の幸福を願って止まない存在、神仏が、人類が不幸の闇に沈もうとしているのを、黙って見ているはずがないのです。
神仏は、その代理人を地上に送り込み、その栄光を、地上に実現せんとしておられるのです。
神仏が人々の幸福を願っておられるならば、それは民主主義の理想と相反するものではなく、むしろ一致するものであるはずです。
単なるポピュリズムではなく、利権屋などでもなく、むろん、独裁者などではなく、全人類を幸福にしたいと願う神仏の意を対した政治家(それを哲人政治家と言っても、宗教政治家と言ってもいいと思いますが) の登場が俟たれます。

切実に思うことは、宗教心を失い、魂を共産主義国に売るようなことがあれば、チベットで展開している地獄図絵は、明日の我が身かも知れない、ということです。
神仏の栄光をこの地上に実現すること、すなわちすべての人類が幸福に人生修行を遂げられる、愛の星・地球をつくるために、不肖私も、浅学菲才の身を顧みず「宗教政治家」を目指して、努力精進してまいりたいと願います。

本日(9日)夕方、野々市市新庄2丁目交差点にて、辻立ちを致しました。

野々市市新庄2丁目交差点にて

野々市市新庄2丁目交差点にて

下記をクリックすると、動画をご覧いただけます。

↓ ↓ ↓

2014 05 09 野々市市新庄2丁目交差点辻立ち

5/3白山市徳丸交差点での辻立ち動画です。

↓ ↓ ↓


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遡って無効である。

幸福実現党・大川隆法総裁によって出された「大川談話ー私案ー(安倍総理参考)」は、「河野談話」「村山談話」を、それぞれ1993年、1995年に遡って無効化するものである。
戦後日本の空気の中で、流され続けてきた毒水、「自虐史観」を、決定的なものとしてしまった両談話を、一蹴する談話である。
「なお、本談話により、先の『河野談話』『村山談話』は、遡って無効であることを宣言する。」と高らかに宣言している。
一体なんびとが、このような言葉を思いつくであろうか。
そして、全文を通して、真実が語られ、語り尽くされて無駄がない。解説も無用だろう。

蛇足ながら、所感を述べると、

まず冒頭、両談話を、「歴史的事実として証拠のない風評を公式見解としたものである」と斬って捨てている。正当性がまるでないと言い切っているのだ。
そして、かかる妄説を公式見解としてしまったことの重大さを、約三百万人の英霊とその遺族に対し、「由々しき罪悪感」と戦後に生きた国民に対し、「いわれなき自虐史観」を押しつけ、「この国の歴史認識を大きく誤らせた」としている。
そのこと自体を、「政府として、ここに公式に反省する」と。
しかり、反省とは、かくのごときものなり。
反省とは、未来、発展向上していくためにこそ必要なものであり、ただ懺悔するだけでもなければ、永遠に罪悪感を持ち続けるためのものでもない。
反省はそれによって、わが国の誇りを取り戻し、世界の平和と幸福に貢献するものでなければならない。

中段では、大東亜戦争を次のように定義づけている。
「欧米列強から、アジアの植民地を解放し、白人優位の人種差別政策を打ち砕くとともに、わが国の正当な自衛権の行使としてなされたものである。」
欧米列強が、アジアの植民地から、いったいどれだけの搾取をしていたことか。これに対して、日本の、台湾や朝鮮半島の統治は、「搾取」とはほど遠く、道路・鉄道・港湾等のインフラ整備、果ては帝国大学の建設等、内地からの「持ち出し」が多かった。
また、日本は世界で初めて、国際会議の場で人種差別撤廃を訴えている。1919年のパリ講和会議では、国際連盟の規約に、人種差別撤廃条項を入れるよう提案したのは牧野伸顕全権代表だった。
そして、この戦争は、敵方だったマッカーサー元帥自身が、米上院の軍事・外交委員会で、日本の自衛のための戦いであったことを証言している。

「政府として今一歩力及ばず、原爆を使用したアメリカ合衆国に敗れはしたものの」、確かに、戦略の拙さもあった。これは後から言えることであり、その当時、自分が当事者だったら同じことをしたかもしれない。敗れたのは事実だから、言い訳しようがない。それはそれとして、原爆を2発も落とされたのは決定的だったろう。それ以外にも、首都・東京を幾度も空襲され、昭和20年3月10日の大空襲では、10万人を超える人々が亡くなっている。まことに残念ながら、「今一歩力及ばず」だったのだ。
かくして、敗れはしたものの、「アジアの同胞を解放するための聖戦として、日本の神々の熱き思いの一部を実現せしものと考える。」すなわち、日本の神々の熱き思いを実現する「聖戦」であったのだ。
これでこそ、300万英霊は報われる(成仏できる)というべきだろう。
まさしく、「神の国・日本」なのである。
ここに、日本を唯物論国家にはしないという、神々と、その意を受けた者たちの決意を明らかにしている。
神仏について語る人々を馬鹿にしたり、嘲笑したりするような文化風土のままでは、唯物論国家ー中国や北朝鮮のようなーとかわらないのだ。
聖なる戦い、正義を実現するための戦いというものはあり得るのであり、そのための神の軍勢というものも、あり得るのだ。

そして、圧巻の後段へと続く。
「日本は今後、いかなる国であれ、不当な侵略主義により、他国を侵略・植民地化させないための平和と正義の守護神となることをここに誓う。国防軍を創設して、ひとり自国の平和のみならず、世界の恒久平和のために尽くすことを希望する。」
平和と正義の守護神たらんとする、力強い宣言である。その願いとするところは、「世界の恒久平和」である。崇高なミッションを自ら掲げ、誓っている。
まさに、高貴なる国・神々の集う国・日本がその高貴なる使命(ノブレス・オブリージ)を果たすという宣言である。
そして最後の一文が、冒頭紹介した「なお、本談話により、先の『河野談話』『村山談話』は、遡って無効であることを宣言する。」という件である。

安倍総理におかれましては、本談話を参考にして、ぜひ、「河野談話」「村山談話」を見直す談話を発表していただきたいものである。
後世の人々から、「あの談話がターニングポイントであった。あの談話により、日本民族が永遠に罪悪感を背負い、贖罪し続けなければならない状況から脱し、わが国の誇りを取り戻すことができ、憲法9条改正と、国防強化の大きな後押しとなった」と評されることになるだろう。
安倍総理が、国難を突破した、未曾有の名宰相として名を遺されますことを、心から祈念致します。

あと、付け足しだが、消費税増税は中止しましょう。
これを実行してしまうと、自らの名を冠した経済政策によってせっかく上向きかけた景気を、自ら腰を折ってしまい、日本経済を危殆に瀕せしめた愚かな宰相として末代まで汚名を遺すことになりますから。

大川談話ー私案ー
↓ ↓ ↓
http://special.hr-party.jp/policy2013/okawa-danwa/


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23日発売の週刊ポストが「完全解剖 日本の宗教 カネと実力 タブーに斬り込む!」という17ページにわたる大特集を展開している。「宗教にお金が集まり、大きな施設を持っている」という表面的な見方しかしていない上に、そもそも事実誤認や誤解に基づく記述が多い。

事実誤認や誤解の多い無理筋の議論 週刊ポストが宗教課税を主張 | ザ・リバティweb – 幸福の科学出版 | 幸福の科学・幸福実現党

いつも大変勉強になるザ・リバティwebのDaily News Clipだが、今日は特に、重要論点満載。

まず、標記の記事。

石村教授の「宗教活動はそもそも課税の対象にならないから、そこから取らないことをもって特権とは言えません。」というこの一言が、すべてでしょう。

本誌が言う「宗教がなぜ非課税であるかは、根本的には、文字通り、宗教が『聖域』であるからだ。宗教は神仏の導きを受けながら、共に人間の魂を救う仕事をしている。そこに徴税権力や警察権力が入り込むことは世俗の穢れを持ち込み、神仏の活動を邪魔することになる」ということが理解できなくなっているということは、日本がいつの間にか、唯物論国家になってしまっていると言えるのではないでしょうか?

「政教分離」規定についても、まことにその通り、議論の余地はありません。

目に見えない尊いものを信ずることができずに、ただ多数決で物事を決することをもって民主主義とするなら、それは誤った民主主義であり、衆愚政に堕すか、ギロチン型大量処刑民主主義となってしまうのではないでしょうか。

信仰が、民主主義に高貴さを与えるものと考えます。

ますます「宗教立国」の実現が急がれます。


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